「日本国憲法」成立過程―――『新しい公民教科書』検定過程(13)

 大日本帝国憲法に続いて、「日本国憲法」の記述をめぐる検定について紹介していこう。最初に、「日本国憲法」成立過程に関する検定について見ていく。

  画期的だが、不十分な申請本

  『新しい公民教科書』の申請本は、単元17「日本国憲法の成立」の中で次のように記していた。まず、「GHQ案の提示」の小見出し下、GHQ案提示までの過程について記した。

  1945(昭和20)年8 月、わが国は、ポツダム宣言を受け入れて連合国に降伏しました。ポツダム宣言は、わが国に民主主義化と自由主義化を求めていました。日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官マッカーサーは、11 月、日本政府に対して、民主主義化、自由主義化のために必要だとして憲法改正を指示しました。

  これを受けて日本政府は大日本帝国憲法の改正案を作成しましたが、マッカーサーは、アメリカの立場からみて、この改正案は不十分であるとして拒否しました。GHQ の民生局で新憲法案がひそかに英文で作成され、1946 年2月13 日、日本政府に提示されました。日本政府としては受諾する以外に選択の余地のないものでした。 (50頁)


  続いて、「統制された議会審議」の小見出し下、議会での審議過程について次のように記していた。

  英文の新憲法案を基礎に日本政府は政府案を作成し、3 月6 日に発表し、4 月10 日、衆議院議員の選挙を行いました。1 月にGHQは戦争の遂行に協力した者を公職から追放するという公職追放の指令を発令していました。そのため、この選挙のときは現職の82%の議員は追放されていて、立候補できませんでした。さらに5 月から7 月にかけて、議会審議中にも貴族院議員を含め多くの議員が公職追放されてしまいました

  また、当時は、GHQ によって、信書(手紙)の検閲や新聞・雑誌の事前検閲が厳しく行われました。GHQ への批判記事は掲載がいっさい認められず、特にGHQ が新憲法の原案をつくったということに関する記事は掲載しないよう、厳しくとりしまられました。従って、憲法審議中、国民は新憲法の原案がGHQ から出たものであることを知りませんでした。

  このような状況のなかで憲法改正の政府案は6 月から10 月にかけて帝国議会で審議されました。帝国議会では、主として衆議院の憲法改正特別委員会小委員会の審議を通じて、いくつかの重要な修正が行われました。しかし、小委員会の審議は、一般議員の傍聴も新聞記者の入場も認められない密室の審議でした。この小委員会の速記録は、1995(平成7)年に初めて公表されました。 

こうして新憲法としての「日本国憲法」は、大日本帝国憲法の改正手続に従って、11 月29 日枢密院本会議で可決し、11 月3 日に公布、翌1947 年5 月3 日より施行となりました。   (50~51頁)

 
上記記述は、「日本国憲法」成立過程に関する公民教科書史の中においてみれば、画期的なものである。特に、傍線部の記述は初めてなされたものであり、議会審議のデタラメさを十分に示しているといえる。

  だが、この申請本には、私が書きたかったことは随分省略されている。私は「日本国憲法」成立過程史の研究者でもあり、「日本国憲法」無効論の方式に基づく憲法改正を主張もしている。その立場からすれば、無効論そのものの展開はしないけれども、次の二点は是非書きたいところであったし、書いても検定不合格になることはなかったと考えている。

一つは「日本国憲法」成立過程がハーグ陸戦法規やポツダム宣言に違反し、国際法に違反しているということである。二つは、議会審議中もGHQの要求により改正案が修正されたこと、そして帝国議会による原案修正には必ずGHQの承認が必要であったこと、要するに議会にも自由意思が全く存在しなかったことである。

  私は、この二点を記すことが一番重要だと考えていたし、私の執筆段階では記していた。しかし、申請本からは、この二点が消されてしまった。特に、一つ目の点は、今回の『新しい歴史教科書』では記すことに成功しているから、『新しい公民教科書』でも是非とも書いてほしかったところである。
 
  「日本国憲法」成立過程史の歴史偽造が自虐史観の出発点

  上記二点は、「日本国憲法」成立過程史において決定的に重要な点である。成立過程におけるGHQの悪辣さは、議会にも自由意思に基づく審議を許さなかったことに最も現れている。その点を隠してしまったのである。要するに、きつい言い方をするならば、「日本国憲法」成立過程については、『新しい公民教科書』自身が歴史歪曲をしているのである。

  世の中には、自虐史観反対を叫ぶ者が多数いる。彼らが主に問題にするのは、明治維新から敗戦までの歴史である。だが、彼らの多くは、それよりもはるかに現代に近い67年前から66年前の出来事である「日本国憲法」成立過程史の真実を明らかにし、それを歴史教育や公民教育に反映させようという努力を払わない。成立過程はどうでもいいから、ともかく「日本国憲法」の改正をしようと言う。

  だが、何度も指摘してきたように、自虐史観の本丸は「日本国憲法」の内容と成立過程のデタラメさにある。日本の「安全と生存」を諸外国に委ねるという、あまりにもデタラメな内容の「日本国憲法」を合理化するためには、二つの歴史偽造が必要であった。一つは、成立過程の歴史偽造である。出来るだけ日本側の自主性をでっち上げるために、特に議会審議の有様について研究することがサボタージュされてきた。そして、教科書では自由な議会審議とか、国民の支持があったとかという戯言が語られてきたわけである。

  二つは、戦前日本に関する歴史偽造である。戦前日本には民主主義も立憲主義も存在せず、対外的にも悪辣な侵略国家、犯罪国家であったとするものである。公民教科書検定の際、痛感したが、教科書調査官も、戦前日本には民主主義も立憲主義も存在しないという考え方に基本的に染まっていた。戦前日本には立憲主義も民主主義もなかったから、米国に「押し付け」られても良かったではないか、という話になる。また、日本は悪辣な侵略国家・犯罪国家であったから、日本の「安全と生存」を諸外国に委ねて自衛戦力さえも放棄するのは当然である、という話も出てくるわけである。

  つまり、デタラメな内容と成立過程をもつ「日本国憲法」を合理化して戦後レジームを墨守するためにこそ、明治憲法体制暗黒論や侵略戦争史観が拡大されてきたのである。明治憲法体制暗黒論や侵略戦争史観をつぶしていくためには、その根源である「日本国憲法」について成立過程面と内容面の両面から批判して行かなければならないだろう。我々は、このことを肝に銘じなければならない。

  それゆえ、教科書改善運動は、「南京事件」や徴用、「従軍慰安婦」問題などの問題だけではなく、成立過程史の問題にも力を入れなければならないと言っておこう。

   12月6日の教科書調査官の意見

  さて、上記申請本に対して、50番から53番まで4つの検定意見が付いた。12月6日、「検定意見書」という文書を文科省で渡され、30分から1時間ほど文書を検討した上で、調査官から口頭で説明を受ける部分を選択した。この単元17については、52番以外の3点について検定意見の説明を受けた。順番に見ていこう。50番は、「日本政府は大日本帝国憲法の改正案を作成しましたが、マッカーサーは、アメリカの立場からみて、この改正案は不十分であるとして拒否しました」に対するもので、「どのように不十分であるか分からず、学習上の支障を生ずる恐れがある」という意見である。12月6日、調査官は、これについて次のように述べた。

   「アメリカの立場から見て不十分」というのは、民主主義的な観点から見て不十分だということですが、これだとどのような点で不十分か分からないので、その点を少し

  51番は、「統制された議会審議」という小見出しと「英文の新憲法案……議会審議中にも貴族院議員を含め多くの議員が公職追放されてしまいました」に対するもので、「議会審議について、誤解するおそれのある表現である」という意見である。51番について調査官は次のように説明した。

  公職追放というのは軍国主義復活を防ぐためのものであったわけですが、統制されたというと、民主主義的な憲法をつくるために統制されたというふうに誤解するのではないか。

   つまり、公職追放と議会審議の統制は関連していないというのである。狙いは「統制された議会審議」という小見出しを変更させることであることは明らかであった。この6日には私も参加していたので唖然としたが、一理ないこともなかった。議会審議中にGHQの命令により国民主権の明記がなされたことなどが書かれていれば、このような調査官の変な理屈を許すことはなかったであろう。

  「日本国憲法」を評価せよ

  52番は、検閲の目的を書けと言うことであり、敢えて説明を受ける必要もないことだった。53番は、この単元の最終段落「こうして新憲法としての……1947 年5 月3 日より施行となりました」に対するもので、「日本国憲法の成立について、大日本帝国憲法の成立と比べて、全体として調和がとれていない」という意見である。53番について、調査官は次のように説明した。

  47頁で大日本帝国憲法については、非常に評価しているのですが、それに比べると、昭和の現在の憲法についての評価が余り書かれていないので

  「日本国憲法」について評価する記述をしろというのである。成立過程の所で「日本国憲法」の内容的評価をしろというのも変な気がしたが、ともかく、調査官にとっては、「日本国憲法」は素晴らしいもののようであった。

  以上の4つの検定意見のうち、53番以外は受け入れることにした。50番と52番は妥当な意見であった。おかしな意見である51番についても、「統制された議会審議」という小見出しと内容が合っていないという批判は一理ないこともなかったので、小見出しを「議員の追放と憲法改正の審議」というものに変更することにした。だが、「日本国憲法」を評価しろという要求は、そのまま受け入れるわけにはいかなかった。そこで、1月7日段階には、次のような修正原稿をつくり、1月12日の話し合いに臨んだ。

  こうして「日本国憲法」は、10月29日枢密院本会議で可決し、11月3日に公布され、翌1947年5月3日より施行されました。この憲法は、大日本帝国憲法の下で育ってきた立憲主義と民主主義をさらに進めた憲法です。

  立憲主義と民主主義という点では「日本国憲法」も評価できるので、上記のように記したのである。しかし、1月12日、調査官は、この記述について次のように述べた。

  これは、より大日本帝国憲法の賞賛部分が増えたという印象がある。検討させてください。

  ともかく、大日本帝国憲法を評価するような記述は気に入らないようである。そこで、1月17日の修正表では、以下のように修正した。

  こうして帝国議会で可決された日本国憲法は、11月3日に公布され、翌1947年5月3日より施行されました。この憲法は国民主権などを定め、大日本帝国憲法の下で育ってきた立憲主義と民主主義をさらに進めています。

  「日本国憲法」の内容に触れなければならないだろうとの判断から、平和主義だけは書きたくない思いがあったので、国民主権だけを具体的に示すことにしたのである。

  「日本国憲法」の平和主義を記せ

  しかし、この原稿に対して、1月25日、次のような意見が告げられた。

 やはり、例えば平和主義を定めて国際的にも評価されているというような評価を書いていただきたい。

   この意見を受けて、結局、最終的には、以下のようになった。

  こうして可決された日本国憲法は、11 月3 日に公布され、翌1947 年5 月3 日より施行されました。この憲法は国民主権や平和主義などを定め、立憲主義と民主主義をさらに進めています。


   「大日本帝国憲法の下で育ってきた」が削除され、入れたくなかった「平和主義」が入れられることになったのである。しかし、考えてみれば、平和主義と立憲主義や民主主義は無関係である。内容として、おかしな文章が作られたというべきであろう。調査官は、干渉しすぎではないだろうか。

  「統制された議会審議」が消えた検定合格本

   最後に、検定合格本の単元本文を全文掲げよう。まず、「GHQ案の提示」の小見出し下、GHQ案提示までの過程について記している。

  1945(昭和20)年8 月、わが国は、ポツダム宣言を受け入れて連合国に降伏しました。ポツダム宣言は、わが国に民主主義化と自由主義化を求めていました。日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官マッカーサーは、11 月、日本政府に対して、民主主義化、自由主義化のために必要だとして憲法改正を指示しました。これを受けて日本政府は大日本帝国憲法の改正案を作成しましたが、マッカーサーは、天皇の統治権総攬を規定していることなどで、改正は不十分であるとして拒否しました。GHQ の民政局で新憲法案がひそかに英文で作成され、1946 年2 月13 日、日本政府に提示されました。日本政府としては受諾する以外に選択の余地のないものでした。 (50頁)

  続けて「議員の追放と憲法改正の審議」の小見出し下、議会での審議過程について次のように記している。

  英文の新憲法案を基礎に日本政府は政府案を作成し、3 月6 日に発表し、4 月10 日、衆議院議員の選挙を行いました。1 月にGHQは戦争の遂行に協力した者を公職から追放するという公職追放の指令を発令していました。そのため、この選挙のときは現職の82%の議員は追放されていて、立候補できませんでした。さらに5 月から7 月にかけて、議会審議中にも貴族院議員を含め多くの議員が公職追放されてしまいました。

  また、当時は、GHQ によって、軍国主義の復活を防ぐという目的から、信書(手紙)の検閲や新聞・雑誌の事前検閲が厳しく行われました。GHQ への批判記事は掲載がいっさい認められず、特にGHQ が新憲法の原案をつくったということに関する記事は掲載しないよう、厳しくとりしまられました。従って、憲法審議中、国民は新憲法の原案がGHQ から出たものであることを知りませんでした。

  このような状況のなかで憲法改正の政府案は6 月から10 月にかけて帝国議会で審議されました。帝国議会では、主として衆議院の憲法改正特別委員会小委員会の審議を通じて、いくつかの重要な修正が行われました。しかし、小委員会の審議は、一般議員の傍聴も新聞記者の入場も認められない密室の審議でした。この小委員会の速記録は、1995(平成7)年に初めて公表されました。

  こうして可決された日本国憲法は、11 月3 日に公布され、翌1947 年5 月3 日より施行されました。この憲法は国民主権や平和主義などを定め、立憲主義と民主主義をさらに進めています。     (50~51頁)


  今読み直してみて一番残念なのは、「統制された議会審議」というまとめが消されたことである。次回では、申請本段階で、「統制された議会審議」という小見出しの下、GHQによる議会審議に対する具体的な干渉・統制の例を示す必要があろう。
  また、民主主義とも立憲主義とも関係のない「平和主義」を入れさせられたことも残念なことである。



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