国民の「政治に従う立場」削除問題の再考―――平成22年度検定を振り返る

 公民教科書検定の目的とは日本国家解体なのか

 前回、検定過程で『新しい公民教科書』の単元10「国家と私たち国民」から国民の「政治に従う立場」が削除されたことを報告した。「日本国憲法」下においてさえ国民は当然に法律を守る義務、納税の義務などをもつ。つまり、国民は、「政治に参加する立場」などともに「政治に従う立場」にも立つのである。ところが、検定側は、この立場を削除しろと言った。そして、それに従わなければ検定不合格になるところであった。やむを得ず、我々は検定側の要求を入れ、政治との関係で、国民は政治に参加する立場、政治から利益を受ける立場、政治から自由な自主独立の立場、という3つの立場をもつと記すことにした。

 これは、私には本当にショックであった。日本の教科書検定は一体何なのであろうか。わざわざ「政治に従う立場」を削除させるとは、教科書検定に携わる人たちは、特に公民小委員会や教科用図書検定調査審議会の人たちは、国民が法律などを守らず、諸々の義務を守らないことを良しとするのであろうか。私には、日本の教科書検定の目的とは、少なくとも公民教科書検定の一番の目的とは、日本国家を解体することではないかと思わざるを得なかった。


(1)平成22年度申請本とそれに対する検定意見

 この単元10「国家と私たち国民」をめぐっては、実は、前回の平成22年度検定の時から、検定側と我々は大きく対立していた。「政治に従う立場」削除問題に直面して、そのことを思い出した。そこで、前回検定以来、我々と検定側はどういう対立をしてきたか、振り返っておこうと考えるに至った。

 前回検定をめぐる検定側と我々との攻防については、私は『公民教科書検定の攻防』(自由社、平成25年)の中で詳細に記している。「国家と私たち国民」の単元についても、51頁から59頁にかけて詳しく紹介し、論じている。

その部分を基に、前回検定における検定側と我々はどのような点で対立したのか、説明していこう。まずは、平成22年度検定における検定申請本の単元12「国家と私たち国民」を全文掲げよう。傍線は引用に当たって、今回私が付したものである。

国民の四つの立場
第16 代アメリカ大統領リンカーンの演説「国民に対する、国民による、国民のための政治」は、国家と国民の基本的関係を簡潔に述べた言葉として有名です。
 まず、「国民に対する」とは、政治が国民を対象とするものであり、国民は国家の政治に服従しなければならないということを表しています。国民は、国家の定めた法に従う義務があり、国家の費用を負担するために納税の義務があります。このような、国家の政治に服従する立場の国民のことを、臣民と呼びます。
 次に、「国民による」とは、国民が公共の精神をもって国家の政治に参加することを表しています。国民は参政権をもち、議員など自分たちの代表を選挙で選ぶことができます。また、みずから議員や役人になって政治を行うことができます。このような、国家の政治に参加する立場の国民を公民といいます。
 また、「国民のための」とは、政治は国民の利益のためになされなければならない、ということです。国民は公共の福祉を享受し、自由と権利が侵されたとき、これを保障するよう国家に求めることができます。このように利益を受ける立場を受益者といいます。受益者として、国民は自由と権利を守るために裁判を受ける権利をもち、また、社会保障など人間として生きていくために必要な援助を国家に求めることができます。
 「国民のための」にはもう一つの意味があります。国民には、個人として自由に生きるという私人の立場があり、私人としての自由は国家が保障しています。国民は、私人としてだれからも干渉されず、精神活動の自由や経済活動の自由などの自由権をもっています。


愛国心と独立心
 4つの立場のなかで、公民としての立場は愛国心をとりわけ強く求められます。公民として国家の政治に参加するためには、自分のことのように国家のことを考えることができるように、愛国心を身につける必要があるからです。
 愛国心を身につけるには、個人は私人として自立していなければなりません。独立して初めて個人は、強い愛国心をもつことができるのです。  (34~35頁)


 まず「国民の四つの立場」の小見出し部分についてであるが、国民は国家との関係で、政治に参加する立場の公民、政治に服従する立場の臣民、国家から利益を受ける立場の受益者、個人として自由に生きる私人、という四つの立場に立っている。検定申請本では、リンカーンのゲティスバーグにおける演説を引用して、公民、臣民、受益者、私人という四つの立場について説明したのである。

of the peopleを「国民に対する」ではなく「国民の」と翻訳せよ

この単元については全部で4つの検定意見が付いたが、この小見出し部分についても「リンカーンの著名な演説とそれに基づく国家と国民の関係について、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げている」として検定意見26番が付いた。平成22(2010)年12月6日、我々は文科省で検定意見書を交付され、その意見書について説明を受けたが、その折、以下のようなことを教科書調査官から言われた。調査官は、何よりも第一に、リンカーンの演説のうち、of the peopleの翻訳が通常のものではないということを問題にした。of the peopleについては、二つの翻訳がある。一般に「国民の」と翻訳されるが、英語学の専門家は、「国民に対する」とするのが正しいという。だが、戦後の法学者や政治学者は、義務や責任を嫌い、国民が法や政治に服従するという側面を無視したがる傾向を持っている。したがって、わざわざ正しい翻訳を無視し、敢えて「国民の」という翻訳を選択してきた。
*藤岡信勝「〈government of people〉の解釈と民主主義の理解」(『新日本学』第6号、2007年)参照

 調査官は、法学者などの解釈を採用して本文で記すことを求めるとともに、「国民に対する」という翻訳は註でならば記してもよいと述べた。そこで、本文ではof the peopleを「国民の」と翻訳することにし、側注で正しい翻訳である「国民に対する」を記した。

「臣民」は使うな、「公民」の定義はするな 

第二に、教科書調査官は、「臣民」という言葉は使うなと指示した。「臣民」という言葉は、統治に従う立場の国民を指す学問用語として成立しているのだが、帝国憲法で使用されているから使用すべきではないと述べた。今回の検定でもそうだったが、ともかく調査官は帝国憲法を本当に嫌っており、悪い憲法として捉えたがる傾向を露骨に持っている。

 第三に、「公民」という言葉の定義をするな、定義を行うとそぎ落とされるものが出てくるから定義しない方が良いと述べた。これは、35頁上欄に置いていた〈公民の言葉 公民〉という小コラムを直接には指していた。

この二つの意見も受け入れた。「臣民」という言葉は削除したし、上の小コラムを削除するとともに、二つ目の傍線部である「このような、国家の政治に参加する立場の国民を公民といいます」を削除した。その結果、臣民だけではなく、この単元からは公民という言葉も消されてしまったのである。

〈国家と国民との関係〉→〈政治と国民との関係〉への変化

 調査官は第四に、35頁上欄にあった「国家にかかわる国民の4つの立場」という図について、「国家」を「政府」または「政治」に変更せよ、と述べた。調査官は、国家と国民との関係という捉え方ではなく、政治または政府と国民との関係という捉え方をしたいようであった。

 何とか、政府や政治と国民ではなく、国家と国民という捉え方をしたかったのだが、図のタイトルは、「国家において政治にかかわる国民の4つの立場」というものになってしまった。
 
私人の立場を削除せよ

以上の4つの意見は受け入れたが、次の第五の意見は受け入れることは出来なかった。調査官は、次のように述べた。

調査官 私人の説明は中学生には理解しがたい。
あえて書かなくても、政府と国民の関係は、中学生にとって分かるのではないか。
  

 自由主義的民主主義にとって、私人が持つ自由権は非常に重要なものである。自由主義的民主主義が全体主義的民主主義に堕してしまわないようにするには、私人という立場と自由権の重要さをきちんと中学生に教育することが大切である。それゆえ、検定申請本では、側注③で次のように記していた。

 私人という立場を尊重する点が、全体主義と異なるところである。全体主義は個人の自由よりも国家の利益を優先し、国民を国家の目的に総動員するので、私人としての自由はない。 
(35頁)


 くり返すが、全体主義に堕さないためには、私人という立場に関する教育が是非とも必要である。ところが、調査官は、私人という立場についての教育は不要だというのである。結局、我々は、「私人の立場」に代えて「自主独立の立場」という言葉を使ったが、私人の立場について書くという原則は貫いた。しかし、註③は削除せざるを得なくなっていく。全体主義に対する警戒感を教育することには、調査官は絶対反対なのである。

 ともあれ、今振り返れば、教科書検定側が一番気に入らなかったのが「私人の立場」であった。「政治に従う立場」ではなかった。ところが、今回の検定では「私人の立場」ではなく、「政治に従う立場」に彼らの敵意は向かった。この違いはどこから来たのであろうか。

 「愛国心」を削除せよ 

 「国民の4つの立場」の小見出し部分だけではなく、「愛国心と独立心」の小見出し部分に対しても「愛国心について一面的で、理解し難い表現である」との検定意見27番が付いた。調査官の第六の要求である。今回もそうだったが、愛国心はできるだけ書かせたくないという強い思いが教科書調査官にはあった。それゆえ、独立心の重要さを説くだけにして、ここで愛国心を書くことは諦めることにした。

(2)検定合格本の記述

 ここまで見てきたように、6つの要求のうち、私人という立場について書くなという要求以外はすべて受け入れた。検定合格本では、以下のような記述になった。「国民の四つの立場」という小見出しは「国民と政治」に、「愛国心と独立心」という小見出しは「自由を守る自主独立心」になった。

国民と政治
 第16 代アメリカ大統領リンカーンの演説「国民の、国民による、国民のための政治」は、国家の政治と国民の基本的関係を簡潔に述べた言葉として有名です。
 はじめに「国民の」とは、国家の政治は国民に由来するという意味で、国民主権のことをさします。
 次に「国民による」とは、国民が公共の精神をもって国家の政治に参加することを表しています。国民は参政権をもち、議員など自分たちの代表を選挙で選ぶことができます。また、みずから議員や役人になって政治を行うことができます。この「国民による」政治は法を定め社会の秩序を維持します。国民は、法に従い社会の秩序に従う義務があり、政治のための費用を負担するために納税の義務があります。
 最後に「国民のための」とは、政治は国民の利益のためになされなければならない、ということです。国民は公共の福祉を享受し、自由と権利が侵されたとき、これを保障するよう国家の政治に求めることができます。国民は自由と権利を守るために裁判を受ける権利をもち、また、社会保障など人間として生きていくために必要な援助を政治に求めることができます。
 すなわち、国民は主権者の一人として、政治に参加する立場、政治に従う立場、政治から利益を受ける立場においては、国家のなかで政治と密接な関係に立ちます。


自由を守る自主独立心
さらに国民と政治の関係の基礎として、国民には、国家のなかで、政治から自由な自主独立の立場もあります。国民には、個人として自由に生き、他人から干渉されない自由な生活があります。国民は、精神活動の自由や経済活動の自由などの自由権をもっています。
 自主独立な立場は、自由を守ることにつながります。自由を守り、自主独立して生きるとは、自分で自分のことを決めて、他人に頼らないで生きることです。そして自ら判断し、自ら自分の行動を決めることです。もし、自分で自分のことを決めることができず、ものごとの判断ができず、何ごとも他人にたより、国家や社会にたよるだけになれば、人々は活力を失い、そして国家の組織や制度は巨大化し、そのことによって、かえって人々は自由を奪われ、社会の活力も失われていきます。ですから、私たちは自主独立の生き方をして、自由を守っていかなければならないのです。

 
 「国民と政治」で注目されるのは、「of the people」を「国民の」と翻訳したうえで、これは「国家の政治は国民に由来するという意味で、国民主権のことをさします」としていることである。この部分は、調査官の意見に従った部分であるが、国民主権を権力的な意味ではなく、権威の意味で理解していることに注目されたい。

 次いで「自由を守る自主独立心」部分で注目されるのは、自主独立の立場を検定申請本よりはるかに強調しているけれども、愛国心が消されたことである。

 これは、我々のように国家と国民の関係という捉え方をするか、検定側のように政府または政治と国民という捉え方をするか、という違いと関連している。我々のように、国家と国民との関係と捉えるならば、愛国心は当然触れておかなければならないものとなる。しかし、調査官のように、政府または政治と国民との関係と捉えると、愛国心を記す必要がなくなるのである。改めて、35頁上欄の図のタイトルをめぐって、検定側が「国家」を「政府」または「政治」に変更せよ、と要求していた理由が良く分かった気がする。検定側は、愛国心が嫌いだから、そのように要求していたのである。

(3)検定側と我々の基本的な対立点

 以上、前回の検定過程を紹介してきたが、公民や臣民、私人といった言葉の問題を除けば、我々と検定側との基本的な対立点は三点存在したように思われる。

 第一に、当時の調査官は、政治に従う立場を書くことは認めていたが、of the peopleの翻訳を「国民の」とすることを要求していたことを考えれば、やはり「政治に従う立場」を嫌う傾向を法学者などと共有していたのではないか。それゆえ、第一の対立点は、「政治に従う立場」をきちんと押さえたい我々と曖昧化したい検定側の対立である。
 第二の対立点は、自主独立の立場(私人)を重視する我々と私人の立場を削除したい検定側の対立である。自主独立の立場(私人)を削除させたがる背景には、検定側の親全体主義的な思想があるようである。
 第三の対立点は、愛国心を重視する我々と愛国心を嫌う検定側の対立である。
 
 このようにまとめてみれば、前回検定で愛国心を削除した検定側としては、今回は何としても「政治に従う立場」を削除したかったのかもしれないと思われるのである。

 しかし、こんな検定は国家を滅ぼしていくものである。次回には何とか復活させたいと思うものである。また、復活させられるような政治思想状況にならなければ、日本の生き残りは極めて困難なものになろう。


 転載自由



ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント