家族と地域社会が消えた、改訂増補版―――共同社会の破壊をもくろむ公民教科書―――

         家族と地域社会が消えた、改訂増補版   
          ―――共同社会の破壊をもくろむ公民教科書―――

平成23年5月11日
     6月6日一部増補
                                                           小山常実
                                   

   去る三月三十日、自由社版の公民教科書が検定合格した。このことは素直に喜びたいと思う。しかし、他社の公民教科書を読んでみて愕然とした。昨年12月、筆者は『公民教育が抱える大問題』(自由社)を出版したが、副題は「家族と国家が消えていく」と名づけられている。依然として、自由社以外の公民教科書の内容は、まさしく、「家族と国家が消えていく」状態にあるのである。その点を、小論では展開していきたいと思う。

家族論が消えた 

何よりも愕然としたのは、多数派の教科書から家族論が消えたことである。三年前の平成二十(二〇〇八)年二月、文科省は、新学習指導要領案を発表し、広くパブリックコメントなるものを求めた。その指導要領案を読んだとき、筆者は本当に驚いた。平成十年の学習指導要領は、「家族や地域社会などの機能を扱い、人間は本来社会的存在であることに着目させ、……」と記していた。ところが、「家族や地域社会などの機能を扱い」の部分が削除され、家族や地域社会が新指導要領案から消えていたのである。パブリックコメントを「つくる会」も行い、その中で、家族と地域社会を残すように要望を行ったが、その後確定した指導要領にも家族と地域社会は復活しなかった。それゆえ、筆者は当時、指導要領自体からは「家族」という言葉が消えたのだから、教科書からも家族論が消えてしまうかもしれないと思ったものだ。

だが、平成二十年の九月に出た『中学校学習指導要領解説 社会科編』を見ると、家族と地域社会について言及が存在した。それに、家族論を書かずに公民教科書ができるわけがないとも考えた。したがって、心の片隅では教科書から家族論が消えるかもしれないと危惧しながらも、まさか、そんなことはあるわけがないだろうと思い続けてきた。

だが、この期待は裏切られた。以下に掲げるように、東京書籍と清水書院の教科書から家族論が消えたのである。まず、家族に関する記述量の時代的変化を示しておきたい。

急減してきた家族教育の記述量

家族教育の記述量は昭和五十六(一九八一)年度以来急速に減少していく。そこで、減少していく以前の昭和五十三年度使用版から、平成十八年度使用版(現行版)を経て、今回の検定合格本に至る記述量の変化を、教科書会社ごとに掲げておこう。

 東京書籍     昭和53年19頁→現行4頁→今回単語のみ
 日文(旧大阪書籍)   昭和53年17頁→現行1.4頁→今回0.6頁
 教育出版      昭和53年19頁→現行4頁→今回1頁
 清水書院      昭和53年26頁→現行2頁→今回単語のみ
 帝国書院     昭和53年19頁→現行2頁→今回2頁
 扶桑社              現行2頁→今回(育鵬社)3頁
 自由社                   →今回4頁

 補足説明をするならば、昭和五十三年度には、上記の東京書籍等五社以外に、日本書籍、中教出版、学校図書の教科書が存在した。三社の記述量を見ると、それぞれ、20頁、24頁、20頁となる。全八社の平均を出すと、20頁半となる。

 現行教科書には、上記の東京書籍から扶桑社までの6社以外に、日本書籍新社と日本文教出版の教科書が存在する。二社の記述量は、日本書籍新社が2頁、日本文教出版が6頁となる。全8社の平均を出すと、約3頁となる。

 三三年前の昭和五十三年度版から見れば、現行教科書の家族の記述量は7分の1に減少していたのである。更に今回は、平均1.5頁となった(自由社を除くと1.1頁……2013/3/14記す)。しかも、東京書籍と清水書院の二社は、家族論を展開するための単元を設定せず、家族という単語を示すのみである。日文(旧大阪書籍)も、簡単な家族論は展開しているけれども、家族論を単元として扱っていない。何と、七社中三社が、家族論を単元扱いしないのである。三社の採択率合計は、平成十八年度でいうと78%になる。現行教科書までは全社が必ず家族論を単元として扱っていたことと比べると、恐ろしい事態である。

更に言えば、教育出版は単元扱いこそしているが、実質1頁しか家族論に充てていない。教育出版を加えると、採択率合計は90%となる。現行教科書の採択率をそのまま当てはめるならば、公民教科書の圧倒的多数派から家族が消えたのである。夫婦別姓運動を超えて、ストレートに家族解体を目指しているといえよう。まじめに考えれば、戦慄すべき事態である。

日本の公民教科書執筆者は、何を考えているのであろうか。家族を解体し、子供を家族から国家に奪い取っていきたいのであろうか。それとも、そんな大それたことは考えていないが、検定合格だけを考えた結果、家族論を減少させたり消してしまったりしたのであろうか。

  効率の観点を家族に持ちこんだ育鵬社

  若干記述にも触れておきたい。家族論を展開している五社の中で、最も対照的なのが、育鵬社と自由社である。

  「保守」の教科書を標榜するはずの育鵬社の教科書は、「家族と私」という単元で、「父親が転勤することになった! 家族のきずなについて考えましょう」という小コラムを置き、「家族会議(対立)」→「会議の結果(効率と公正)」→「結果の実行(合意)」という流れで、父親の転勤問題を論じている。結論は父親に単身赴任してもらいテレビ電話などで家族のきずなを深めるというものだが、この結論よりも、効率と公正のバランスという観点を家族の中にストレートに持ちこんでいることにびっくりした。

対立と合意、効率と公正ということは、今回の学習指導要領の最大の目玉になっている。もろもろの社会集団では対立が生まれるが、その対立を解決して合意に達するためには効率と公正のバランスを考えていかなければならない、という考え方が指導要領とその解説書では強調されている。そして、指導要領は、日常生活から経済、政治、国際社会まで全てが、効率と公正のバランスという考え方で取りしきられるべきであると考えているようである。そして、議論の結果合意に達した事項は契約ともいえるものであり、契約は守らなければならないということを教えたいようである。

しかし、効率と公正のバランスと言った観点、特に効率の観点は利益社会にしか通用しない。共同社会、特に原初的な共同社会である家族には、通用しないものである。家族に無理に効率と公正のバランスと言った観点を持ちこめば、家族は利益社会化し、解体を余儀なくされることになる。

好意的に考えれば、こういうことを分かっているからなのか、他社は育鵬社のような家族会議の小コラムを設けていない。家族会議の場を設けていても、効率という観点は出していない。家族論を消したり減少させたりした教科書会社の場合、特に効率の観点を家族に持ちこみたくないからこそ、家族論を展開しなかったのかもしれない。

効率の観点は家族となじまぬことを明記した自由社

他社と異なり、自由社は、2単元4頁の分量を用いて家族論を展開している。簡単にその特徴を述べておくならば、自由社は、第一に、家族が共同体であること、社会の基礎単位だということを書いている。第二に、親が子供を保護したり、指導・教育したりすること、第三に、家族は祖先から子孫へつながる「縦のつながり」として捉えられることを記している。余りにも当たり前の三点である。実は、嘘のような話だが、この当たり前の三点を全て書いた教科書は、現行版や今回の検定合格本では、自由社以外に存在しない。第一の点を記した教科書さえも、自由社、育鵬社、帝国書院の三社だけである。

更に特徴的なのは、家族を共同社会と捉える自由社は、「1章 個人と社会生活」の最初に「共同社会と利益社会」という単元を置き、利益社会では公正と効率のバランスが重要だと記したうえで、「家族などの共同社会は、特定の目的の実現を目指した社会集団ではないため、効率性を問題にすることは適切ではありません」(21頁)と記している。

公正と効率のバランスという観点、効率の観点を家族に持ち込んだ育鵬社との違いに注目されたい。

改正教育基本法を守らない六社

多数派教科書から家族が消えたことは、非常にショックであった。やはり、日本社会はもうだめかもしれないと思われてならなくなった。では、同じく学習指導要領から消えた地域社会はどうか。調べてみると、採択率60%を超える東京書籍に加えて日本文教出版、教育出版、清水書院の計四社は、地域社会をテーマにした単元を設けることをしていない。単元を設けているのは、帝国書院、育鵬社、自由社の三社のみである。

現行教科書では撤退した日本書籍新社を含めて五社が地域社会のために単元を設けていた。五社が三社に減少したことに注目されたい。公民教科書の中では、家族よりも先に、地域社会という共同社会が破壊されてきているのである。

地域社会が更に消えていったからか、今回の検定教科書は、軒並み「公共精神」も「愛郷心」も展開しなかった。しかし、思い出していただきたい。平成十八(2006)年十二月、保守派の教育再生運動、教科書改善運動の結果、教育基本法が改正された。その第二条は、[教育の目標]を掲げ、「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと」(第三号)、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する……態度を養うこと」(第五号)規定した。明確に、公共の精神、愛国心、愛郷心の育成ということが、教育の目標として設定されたのである。一言で言えば、教育基本法改正の大眼目は、一言で言えば、共同社会再建の思想の表明であったはずである。

したがって、今度検定を受ける公民教科書には、公共の精神、愛国心、愛郷心を育成するための記述が多く登場することになると考えられてきた。筆者も、そのように考えて各社の公民教科書を一月ほど前に覗いてみた。すると、自由社以外の教科書は、愛国心も愛郷心も公共の精神もテーマとして取り上げていないことに気付いた。いや、それどころではない。索引を引いてみると、自由社以外の全ての教科書で、これらの言葉が出てこないのだ。
 
 そんなわけがない、言葉ぐらいはあるだろうと考え、今度は全社の教科書を通読してみた。だが、やはり出てこない。 ただ、育鵬社が、「地域社会と私」という単元で、「地域社会に生きる」の小見出し下、「私たちが地域のコミュニティーを維持していくためには、個人や家族の生活が地域とともにあることを意識すると同時に、各自が地域の一員として公共の精神をもつことが重要です(傍線部は引用者、以下同じ)」(30頁)と記していることに気付いた。だが、これだけである。育鵬社は、「公共の精神」の定義を全くしようともしていないのである。

   教科書改善運動を裏切った育鵬社

  育鵬社の教科書は、いやしくも、保守の教科書を標榜し、「改正教育基本法に基づく教科書改善を進める有志の会」が支援してつくられたものである。だから、「愛国心」と「愛郷心」の言葉がないことが信じられなかった。そこで、丁寧に読んでみると、二つの記述にぶつかった。

一つは、「文化の継承と創造の意義」の単元で、「伝統文化を尊重することは、それらをはぐくんできた日本や郷土を愛することにつながります」(13頁)という記述である。二つは、政治編の「国民の政治への参加」の単元で、「ブライスは……長い歴史を経て築き上げてきた、自由を尊重する態度、国や地域社会を愛する心、法を守る精神などの伝統が必要だと述べています」(77頁)という記述である。

何とも、腰の引けた書き方である。この程度の書き方は、現行版の扶桑社だけではなく、今までも何度も登場しているものである。いや、そもそも愛国心という言葉だって、20年ほど前には2社ないし1社が、昭和30年度から46年度までの時期では3割乃至6割程度教科書が使っていた(小山常実『公民教科書は何を教えてきたのか』展転社、二〇〇五年)。にもかかわらず、教科書改善運動を担ってきたはずの人たちが執筆ないし応援した育鵬社の教科書は、愛国心という言葉さえも使わないのである。何とも、いまだに信じられない想いである。これは教科書改善運動に対する裏切り以外の何物でもないであろう。

だが、改正教育基本法は、愛国心と愛郷心、公共の精神を涵養する教育を要求している。基本的に愛国心等の言葉さえも登場させない六社は、愛国心などを育成する教育を放棄したのである。これら六社の教科書は、改正教育基本法に違反した教科書ではないのか。本来、検定合格してはいけない教科書ではないだろうか。

  右に論じてきた公共の精神、愛郷心、愛国心は、地域社会や国家という共同社会を維持する根幹となるものである。そして、日本以外の国では、当たり前に教育されているものである。したがって、愛国心などの教育をしようとしない六社の教科書は、共同社会破壊をもくろむ教科書であるといってよいだろう。

国家の再建、未だ手付かず

共同社会といえば、家族、地域社会に加えて、国家が挙げられる。国家の破壊は、既に昭和二十年代で完成している。これまできちんと国家論を展開し、国家の目的・役割をきちんと整理した教科書は登場したことがなかった。五年前の教育基本法改正を受けて、愛国心を説く前提として、国家論が展開されることになるのではないかと期待していた。だが、自由社以外では、清水書院だけが正面から国家論を展開するだけである。他の五社は、育鵬社も含めてきちんとした国家論を展開していないことに注意を喚起されたい。国家の再建未だ手付かず、というのが公民教科書をめぐる思想状況である。

唯一、公共の精神、愛郷心、愛国心を説く自由社

家族、地域社会、国家という共同社会維持の思想からつくられている教科書は、自由社の教科書だけである。自由社は、2単元使って国家論を明確に展開し、家族に2単元、地域社会論に1単元使っている。地域社会の単元では、「公共の精神」を「社会の利益と幸福を考えて行動しようとする精神」(31頁)と定義し、その重要さを指摘している。愛国心と愛郷心についても、「家族愛・愛郷心から愛国心へ」の単元を設定し、「愛郷心から愛国心へ」の小見出しの下、次のように記している。

「国民にとって最も大きな社会である国家は、共同社会の性質ももっています。自分が生まれ育った祖国を大切に思う心を愛国心といいます。オリンピックで日本の選手が活躍したときなどうれしくなるのは、愛国心の自然な表れといえるでしょう。
自分を愛する気持ち(自己愛)を、家族や友人も同じようにもっていると気がついたとき、自己愛は他者への愛に広がります。さらに地域社会、郷土、美しい自然環境などの公的なものへと拡大して、愛国心は形成されていきます。故郷をいとおしく思う愛郷心(郷土愛)、そして愛国心は自然な感情として芽ばえ、育っていくものです」(32頁)。

 右の記述は、当たり前の、極めて常識的なものである。ところが、このような記述を行うのは『新しい公民教科書』だけなのである。何とも、暗澹たる気持ちにならざるを得ない。

  それはともかく、第1章に続いて、第2章「立憲国家と国民」では国家とは何なのか、国家の役割とは何なのかを明確に展開した。とりわけ、国家の役割を四点で整理したことが特筆される。『新しい公民教科書』は、「国家の成立とその役割」の単元で、国家はなぜ成立したのかを展開した後、「国家の役割」という小見出しを置き、次のように記している。

  「歴史をふり返ると、外敵からの防衛は国家の重要な役割でした。また、道路や橋の建設など、土木工事などを行って、生産と生活の基盤となる社会資本の整備を図ること、そして法を制定し、法に基づき社会秩序を維持し、国内に平和をもたらすことも、国家の重要な役割です」(39頁)。

  右のように国家の役割を、防衛、社会資本の整備、法秩序の維持の三点に整理したうえで、『新しい公民教科書』は、近代国民国家になって「国民一人ひとりの権利の保障を新たな役割として取り入れた」(41頁)と明言している。

  防衛、社会資本の整備、法秩序の維持、国民一人ひとりの権利保障という四点で国家の役割を整理することは、大方の賛成を得られるものと思われるし、極めて常識的なものと考えられる。しかし、このような明確な整理は、公民教科書の歴史上初めて登場したものである。

  ところが、従来のほとんどの教科書は、国家について正面から記述することはなかった。五年前の教育基本法改正を受けて、愛国心を説く前提として、国家論が展開されることになるのではないかと期待していた。しかし、自由社以外では、清水書院だけが正面から国家論を展開するだけである。他の五社は、育鵬社も含めてきちんとした国家論を展開していないことに注意を喚起されたい。

  筆者は、特に育鵬社さえも国家論を展開せず、国家の目的・役割を明確に整理していないことに大きく落胆した。尖閣事件などに代表される民主党政権の無様さは、国家の思想の欠如によるものである。したがって、今の日本にとって最も必要なものは、国家の思想の国民的規模での再建である。そのためには、『新しい公民教科書』が広く読まれ、多くの中学校で採用されるようになることが是非とも必要となろう。再度繰り返すが、家族、地域社会、国家という共同社会維持の思想からつくられている教科書は、自由社の『新しい公民教科書』だけである。とりわけ教科書改善運動を担ってきた方々には、この点を弁えていただきたいと訴える。いや、国民一般にこの点を訴えておきたい。


    
 最後に

  小論で展開したように、結局、ほとんどの教科書では、相変わらず、国家という存在は姿を消したままである。そして、家族は更に姿を消していっている。まさしく、「家族と国家が消えていく」状態が進行しているのである 。是非、『新しい公民教科書』をお読みいただきたい。そして、『公民教育が抱える大問題』をお読みいただきたい。そうすれば、今の公民教科書をめぐる思想状況がお分かりいただけるものと思われるし、いろいろな困難を乗り越えて、何故我々が『新しい公民教科書』を世に出したか、お分かりいただけるものと信ずる。

  日本の再生は、『新しい公民教科書』で表明された思想(家族維持の思想、公共の精神、愛郷心、愛国心、防衛を国家の役割として正面から認めること、権力分立を含めた日本国憲法七原則、法の下の平等)を多くの国民が共有することから始まる。その意味で、本夏の中学校教科書の採択戦は日本国家の命運を決するものになると思われる。

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