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zoom RSS 性善説ゆえか大甘の日本軍……通州事件(4)――通州事件の原因論

<<   作成日時 : 2018/05/04 02:09   >>

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   今回は、通州事件の原因論を記した「通州事件(4)――通州事件の原因論」を転載する。この記事を読まれるとよくわかるが、日本軍は大甘である。自分たちの正義に自信を持ちすぎているせいか、人を信じすぎる性善説の人間観ゆえか、保安隊を信じ込んでいた。しかし、保安隊の主力は、明らかに、1935年8月の時点で、張学良系の反日派に入れ替わっていた。彼らに対する警戒感がなさすぎたのはなぜだろうか。日本人の長所であり、短所である性善説の人間観の故だろうか。ともかく、大甘すぎる日本軍にため息が出てしまう。

  もう一点、思ったことがある。それは国民党のすさまじい反日教育についてである。こういう反日教育をしていたのでは、いくら先に共産軍討伐を計画しても、共産軍に反日のための統一をと叫ばれれば、結局イデオロギー的に負けてしまうのではないかということだ。要するに、国民党は、自らが行った極端な反日教育、反日思想に振り回され、その毒が全身に回って日本軍に戦争を仕掛けて敗れ、共産軍に最終的に負けてしまうという結果になったのである。
 
  ともあれ、記事を転載することとする。


   通州事件(4)――通州事件の原因論  
 
  通州事件を起こした保安隊は親日派の「軍隊」であったと言われるが、第一に、いつから反日派になったのであろうか。第二に、いつからどのように事件を起こす計画を立てていたのであろうか。

  第一の点は本記事で展開していくように、すぐ知ることができた。第二の点は、「通州事件(2)――事件そのものの概観、保安隊と29軍は何をしたのか」でも述べたように、事件が計画的なものであったことは確かだが、いつから基礎的な計画があり、いつから具体化していったか、と言う点については、私程度の調査では分からない。

  だが、いろいろ文献を読み進め、自分なりにまとめていく中で、通州事件が起きた原因又は背景については分かった気がする。それは、三点ある。第一に、1935年の時点で保安隊が反日派に転換していたことである。第二に、国民党や共産党が排日運動を行っていたこと(特に国民党による常軌を逸した反日教育)である。第三に、第二の点と関連するが、反共思想の方が反日思想よりも強ければ内乱(国民党VS共産党)で収まったのであろうが、反日思想の方が強力になりすぎたため、蒋介石が戦争を決意するに至り、現実に7月27日前後から事実上の戦争が始まったことである。

 以下、順にみて行こう。

一、保安隊は反日派に変化していた

 まずは、保安隊に焦点を当ててみていく。これについては、田中秀雄「第四章 通州事件の時代背景」(藤岡信勝・三浦小太郎編著『通州事件 日本人はなぜ虐殺されたのか』勉誠出版、2017年)に依拠してみていく。
 
 保安隊のルーツ……元々は親日派

 保安隊の成立は、1933年5月の塘沽停戦協定に由来する。この協定により、非武装地帯(北京や天津は入らない)が設定された。この地帯の真中を東経118度線が通っており、西側を葪密区(けいみつく)、東側を灤楡区(らんゆく)という。西側を陶尚銘、東側を殷汝耕が督察専員とし、行政を行うことになった。二人とも、早稲田大学の留学生であり、日本語に堪能であった(藤岡・三浦本、123〜124頁)。
 この非武装地帯に軍隊を入れるわけにはいかなので、治安維持の目的で保安隊が作られた。田中氏によれば、内田尚孝氏の『華北事変の研究』(汲古書院、2006年)は、成立当初の保安隊を以下のように分類している。本来は内田氏の著書にも目を通すべきなのだろうが、未見のまま記すこととする。
  A日本側と関係を有する部隊……親日派
    第一総隊 隊長・劉佐周 駐屯地灤州
    第二総隊 隊長・趙雷  駐屯地唐山              
  B日本側と関係がない部隊 
    第一総隊 隊長・楊玉成 駐屯地昌黎
    第二総隊 隊長・範景華 駐屯地順義
    第三総隊 隊長・周毓英(しゅういくえい) 駐屯地撫寧
       (同、125頁)


 李際春について

 元々は、親日派であるAの部隊は、李際春という人が指揮官だった部隊である。李は軍人を引退して後に銀行家になる人物だが、部下であった劉佐周と趙雷が李の部隊を引き継ぎ、それぞれ第一総隊隊長と第二総隊隊長になったわけである。

 ついでに李について紹介しておくならば、李は、非武装地帯内にある豊潤という街で生まれ、中華民国初期から、政治家、軍人として活躍した。満州事変が起こると、李は、これに呼応して河北自治義勇軍を組織する。この義勇軍が主体となって、Aの親日的保安隊が生まれたわけである。ちなみに、李の養子となり、有名な女優・李香蘭となったのが山口淑子である。淑子は、李と親しい関係にあった満鉄職員の山口文雄の娘であった(同、125〜126頁)。

 保安隊の反日化

 しかし、例えば、満州日報夕刊(昭和9年3月8日)の隅っこに「日、満、支提携論」というものが出ている。この記事では、北京や天津では日満支提携論が出てきていること、料理店などで満州国旗が軒先に掲げられていることが紹介されている。田中氏は、べた記事だから、より信憑性があるとしている(同、127〜128頁)。

 この情勢に対抗するためもあり、国民党は、「日本側と特に関係を持たない部隊は、自分たちの国民党が推挙する保安隊と交代できるだろう」と提案してきた。その理由は、「劉佐周や趙雷の部隊も含めて素質が悪い、匪賊に近い軍隊であるから、新たに国民政府で訓練された部隊に交代させたいというものだった」。長い折衝の末、日本側は国民党提案を受け入れ、日本側と関係がないBの部隊が交代した(同、129〜130頁)。

 1935年2月、「関東軍の許可を得て、河北省に駐屯していた国民革命軍第五十一軍(軍長于学忠)から二個師団(団は日本の連隊に相当)約五〇〇〇人が保安隊に加わった。これらの部隊を率いていたのが、後に通州事件を引き起こす張慶余と張硯田であった。ふたつの部隊はどちらも軍事訓練を受けていた精鋭で、保安隊の主力として期待された」(広中本38頁)。

 張慶余の部隊は通州がある西側の葪密区、張硯田の部隊は東側の灤楡区に駐屯する。しかし、張慶余も張硯田も河北省長を務めていた于学忠の部下である。そして于学忠は、実は張学良の部下で、満州から追い出された軍閥だった(藤岡・三浦本130頁)。

 更に、日本側にとって痛い出来事が起こる。1935年8月5日、保安隊隊長の劉佐周が、灤州の駅前で銃撃を受け死亡する。国民党による暗殺だった(同135頁)。

 要するに、保安隊の主力は、1935年の時点で、張学良配下の反日分子に入れ替わっていたのである。すなわち、この時点で、通州事件のような残虐事件にまでいかなくても、保安隊が日本軍を攻撃する基本的構図が出来上がっていたのである。このことに留意されたい。
  
二、排日運動の影響を受けた保安隊と29軍

 しかし、何故に、保安隊は、単なる軍事攻撃では飽き足らず、ジェノサイドとも位置づけられる虐殺事件を起こしたのか。それは、中国伝統の残酷文化の発露だとも言えようが、直接的には、常軌を逸した反日教育、排日運動のせいである。
 
 自らの残虐行為を日本軍に転嫁する方針を決めた国民政府

 1928年の済南事件の直後、国民政府は全国教育会議で次のような決議を行った。田中氏は、次のようにまとめている。

 ・「国恥材料を小学及び中学の教科書中に十分に編入する」
 ・「学校は機会があるごとに、国恥事実を宣伝し、支那の第一仇敵が何国なるかを知らしめ、これを反復す」
 ・「国恥図表を設置し、学生に対し、機会あるごとにこれを示し、その注意を促す」
 ・「第一仇敵」を「打倒する方法に関し、学校に於いて教師学生、共同研究すべし」
 ・「具体的な小学校の反日教育」は、「反日に関する論文、詩歌」、「反日標語の写字」
 ・「図画」では「日本兵の蛮行」
 ・歴史では「日本の支那侵略の歴史的事実」……田中上奏文とか、そういうもの
     (同133〜134頁)。


 「日本兵の蛮行」と言うが、何回か前の記事で述べたように、済南事件で蛮行を行ったのは国民党軍の方である。国民政府は、自らが冒した蛮行に慌ててしまった。本来は、国民党軍の訓練を徹底して略奪や虐殺をさせないようにすべきなのだが、到底、国民党軍の質から言って出来ない相談だった。そこで、自分たちの行った蛮行は、日本側こそが行っているという宣伝、というよりも明確なプロバガンダを行うことにしたのである。この残酷イメージを日本側に擦り付ける政策は、今日まで一貫して継続している。

 反日教育で育てられた保安隊主力

 こうした常軌を逸した反日教育は、学校教育と国民党軍の中で行われた。保安隊の主力は国民革命軍第51軍の兵士に1935年の時点で既に入れ替わっていたわけだから、彼らが日本側に攻撃を仕掛ければ、その反日思想から日本の民間人に対して残酷な行動に出ることはある意味必然だったのである。

 29軍に及ぼす中国共産党及び張学良・馮玉祥の影響

 通州事件の背景を考える場合に、もう一つ重要なのは、張学良と馮玉祥の存在である。保安隊に影響力を持つ張学良は、蒋介石によって、陝西省や甘粛、青海などで拡大する共産勢力打倒の中心に据えられていた。だが、全くやる気がなかった。

 そればかりか、1936年3月には、張学良と周恩来が、延安と西安のほぼ中間の洛川で会う。「洛川会議」である。馮玉祥も、1936年半ばに英国新聞のインタビューに答えて国共合作を言っていた。

 この馮の元部下が、宋哲元だった。宋哲元の部下にも馮の息がかかっていた。例えば、「馮玉祥の長男の馮洪国(ふうきょうこく)というのは、ソ連に留学した共産党員で、29軍の軍事訓練団の大隊長として入り込んでいた」(同145頁)。さらに前述のように、張慶余と張硯田は、張学良の部下である于学忠の部下だった。つまり、29軍には馮の息が、保安隊には張学良の息がかかっていたのである。そして、両者とも容共であった(同、141〜144頁)。共産党は、周知のように、日本との全面戦争に持ち込みたいと考えていた。共産党→馮玉祥・張学良→29軍・保安隊という流れで、日中戦争計画を発動させる構造があったということなのである。

 揺れる宋哲元、逃げ出す

  さて、29軍軍長であり、1935年12月に出来た冀東政務委員会の委員長であった宋哲元は、どうしたか。華北でも大変な事件が続発する。1936年1月2日、29軍の兵隊40名が、天津大沽(白河河口の町)の日本商店2軒を襲い、現金や商品を掠奪した。1936年6月、豊台(北京駅より南西約10キロ)に駐屯する日本軍軍属が暴行される。同年8月には、豊台居住の民間人森川太郎が、29軍の歩哨に脇腹を銃剣で刺される。

 宋哲元は、元々は反日思想に染まっていたが、「赤化を防止する」といって北京に出てきた。そして日本側との付き合いが増えるにつれ、多少とも親日的ともなる。だが、元の親分馮玉祥の圧力を受ける。また張学良に勝つこともできない。

 したがって、宋はこれらの事件を片付けられない。ついに、1937年5月3日、天津の母親の下に行き、墓参りすると言って故郷の山東省楽陵に引きこもる。29日には20日間の休暇延長願いを出し、6月28日に更に20日間の休暇を求めて引きこもる。引きこもっているうちに、7月7日に盧溝橋事件が起こるのである(同143〜144頁、田中『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』300頁、参照)。

三、盧溝橋事件から通州事件まで←加藤本又は藤岡・三浦本の藤岡論稿、田中本『日本はいかにして中国との戦争に引きずりこまれたか』
―――盧溝橋事件から第二次上海事変までは、中国内の反日競争が戦争へ至る過程

 盧溝橋事件前後の勢力図 

 盧溝橋事件前後における中国内部の勢力図を整理するならば、次のようになる。

 A全面的な反日で共産党(既に対日宣戦をしている)、馮玉祥と張学良
 B全面的な反日で、反共で対日戦を遅らせたい蒋介石
 C反共・自治政府運動と反日との間で揺れる宋哲元、韓復、張自忠
 D親日で反共の殷汝耕と南方の西南広東政府の胡漢民。


 私には、胡漢民等の位置づけがもう一つできていないが、これら四派に区分できることは確かであろう。もちろんBが一番の多数派である。 肝心の29軍の兵たちは、AまたはBの影響下にある。第一総隊と第二総隊、教導総隊といった保安隊の主力も、同じような状態であった。それ以外の保安隊は、BCDの何れか、或いは宋らと同じCであったと思われる。

  四派の中では、反日思想派の勢力が強く反共思想派の勢力が弱かった。反日思想を声高に叫ぶ者はいても、反共思想を声高に宣伝する者は少なかった。Bの蒋介石派がいかに共産軍討伐を優先しようと思っていても、日本と衝突する場面では反日的な態度をとらざるを得なかった。その結果、日本と戦争になるかもしれないと思っても、反日的に振る舞わざるを得なくなっていくのである。B自身が反日思想に縛られてしまっていたから、余計にそうであった。

  もしも、反共思想の方が反日思想よりも強ければ内乱(国民党VS共産党)で収まったのであろうが、反日思想の方が強力になりすぎたため、一番多数派であるBの蒋介石派が戦争を決意するに至り、現実に7月27日前後から北支における事実上の戦争が始まるのである。その北支における事実上の戦争の一局面として北京戦が、もう一つの局面として通州戦が戦われ、通州事件が起こるのである。以下、盧溝橋事件から通州事件までの過程を整理していくこととする。

 蒋介石が対日全面戦争を決意するまで……7月7日から19日まで
 

  7月7日午後11時45分頃、盧溝橋で機関銃が火を噴く。7月7日夜、北京中心部の南西10数キロ、永定河という川にかかる盧溝橋付近で冀察政務委員会麾下の29軍と日本軍とが交戦した。中国共産党員が第29軍に潜り込んで第一発を放ったという見解が有力である。

 盧溝橋事件が勃発すると、さすがに宋哲元も逃げてはおれず、7月11日夜7時、天津の自邸に帰りつき、29軍幹部を招致した。さっそく、夜8時には、日本軍との間に協約がなる。内容は、次の三条件である。

 1、29軍は、日本軍に遺憾の意を表明し、責任者を処罰する
 2、盧溝橋及びその北1キロの竜王廟近くに兵を留めず、保安隊を以て治安維持を図る。
 3、本事件は藍衣社、共産党など抗日系団体の指導に起因するのでその取締りをする。
      (前掲田中日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』302頁)


 この第三条件を受けて、7月19日夜11時、防共と排日取締りの細目協定が29軍と日本軍との間で成立した(同303頁)。

 このように29軍のリーダーたちと日本軍との間では、和平が図られ、共同防共の道が探られていた。だが、共産党の入り込んだ現場の29軍は、上の命令を聞かず、日本軍に攻撃をかけていく。7月13日、北京南方約1キロの馬村を走行中の日本軍トラックが待ち伏せ攻撃され、5名が戦死した。同じく、南苑付近でも両軍が衝突した。14日にも北京南方の黄村で射撃され、日本軍連絡兵一名が戦死した。16日朝8時には、通州と天津の間の安平で、29軍から射撃され、応戦して互いに死傷者が出た(同302頁)。

 こうして華北で散発的な戦闘が行われている間に、南方では、7月17日、18日、周恩来と蒋介石が江西省の廬山で会談する。周恩来は、対日協同抗戦を提案した。翌19日、蒋介石は南京に帰り、「最後の関頭に至れば我々のなすべきことは只一つ、国家存立のため抗争することだ」と演説した。ここで、蒋介石が対日全面戦争を決意したとほぼ捉えられよう(同303頁)。 

 日本軍が北京方面における戦争を決意するまで……19日から27日まで
 

  南方で共産党と国民党が接近し対日全面戦争に傾くにつれ、河北における29軍の動きも活発化していく。細目協定が成立した19日にも、夕方5時過ぎ、盧溝橋付近で、29軍兵士が射撃した。20日午後2時半、再び射撃される。そこで、苑平県城に射撃を集中し、29軍を沈黙させる。しかし、3時過ぎに反撃され、応戦した(同、303頁)。

 翌21日、日本軍と29軍代表が盧溝橋等の29軍兵に撤退勧告にいくが、「そんな命令は受けていない」と拒否される。国民党中央軍が続々北上しつつあると信じたので、29軍の現場は抗戦意識が旺盛であった。そして、7月25日夜には廊坊事件が、26日夜には広安門事件が起き、またも日本軍は攻撃され、日中両軍は激突した。日中両軍の激突を前にして、どうしようもなくなった宋哲元は、7月27日、冀察政務委員会委員長の辞任を南京政府に申し出る。後任は張自忠とし、秦徳純とともに保定に逃げたのである(同304〜305頁)。
 
 北支における事実上の戦争開始、その1 北京戦

 宋哲元が逃げた27日の頃、日本軍は、北京方面での戦争を決意する。7月27日午後3時、29軍駐屯の南苑兵舎を攻撃した。午後7時過ぎには占領し、夜12時、「万策尽きて膺懲の師を進むるの外なし」と声明した。28日早朝には、西苑兵舎も空襲し、地上攻撃を行う。29日夕刻までに苑平県城を占領した。北京城内から29軍は逃亡した(同305頁)。

 北支における事実上の戦争開始、その2 通州戦としての通州事件

 日本側は北京方面に於ける戦闘を決意したが、通州で戦争する気は全くない。ところが、新南門城外にある宝通寺には、29軍麾下の傳鴻恩隊長率いる717部隊約1千名が駐屯していた。広中氏は、1千名ではなく500名としているが、興味深いことに、「傳鴻恩は盧溝橋事件が起きてから、たびたび日本側に寝返ろうとする態度をみせるようになった。そのため、……特務機関の細木繁機関長は、憲兵を派遣して傳鴻恩の意図を探らせた。しかし、傅の真意ははっきりしなかった」(広中本、53頁)と記している。

 そこで細木は、支那駐屯歩兵第二連隊を率いる萱嶋高大佐と相談し、このまま29軍を放置しておくことは危険だと判断し、廊坊事件のあった翌26日、29軍717部隊に対して、27日午前3時までに武装解除の上北京へ退去せよ、と要求した。717部隊は、逆に戦闘準備の様相だったので、通告期限の27日午前4時をもって萱嶋連隊は攻撃した。数時間で掃蕩を終えたが、日本側も戦死者11名、負傷者多数を出した。

 ところが、ほっとしたのも束の間、天津司令部から緊急指令があり、萱嶋連隊は北京郊外の南苑まで援護に向かう。同日夕刻には南苑に急行した(加藤本54〜55頁)。

 日本軍が居なくなったので、保安隊はチャンスとばかり、29軍に呼応して、29日午前3時、日本軍を闇討ちし、戦闘を仕掛けた。そして、虐殺事件も計画的に起こしたのであった。

参考文献 
 傍線を引いた文献を最も参考にした。

 田中秀雄『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』草思社、2014年
 加藤康男『慟哭の通州』飛鳥新社、2016年10月
 広中一成『通州事件 日中戦争泥沼化への道』星海社、2016年12月
 藤岡信勝・三浦小太郎編著『通州事件 日本人はなぜ虐殺されたのか』勉誠出版、2017年7月、藤岡信勝「第一章 通州事件とは何か」、田中秀雄「第四章 通州事件の時代背景」 


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