日本国民全体が読むべき公民教科書の誕生―――お花畑世界観を克服し、歴史教育における自虐史観打破へつなげよう

  何とか検定合格した『新しい公民教科書』とはどういうものだろうか。今回から、簡単に説明していこう。まずは、総論的な文章を以下に掲げよう。
 
 『新しい公民教科書』は全国民が読むべき公民教科書 

自由社の『新しい歴史教科書』の検定不合格は、日本の生き残りにとって、非常に手痛い出来事である。しかし、9年ぶりに検定申請した『新しい公民教科書』がギリギリ検定合格した。これは、何とか希望をつなぐ出来事である。

『新しい歴史教科書』は6回目の検定申請だったのに対し、『新しい公民教科書』は4回目だった。今回の『新しい公民教科書』は、思想史的・教科書史的に言って初版の『新しい歴史教科書』と並ぶ意義を有している。

 極めてざっくりと言えば、『新しい公民教科書』は、日本国民が失った普遍的な国家論と国際法(の感覚)を取り戻すためにこそ、つくられた。歴史戦は正しい史実を提示するだけでは勝てない。歴史研究も歴史教育も、史実を正確に捉えようとする態度だけでは決して改善されない。

日本では、その史実を評価する規範そのものが、「日本国憲法」やその影響を受けた憲法学者などによって、とんでもなく狂わされている。我々日本国民が、いや、政治家を初めとした各界のリーダーたちが抱いている規範そのものがおかしくなっている。我々は普遍的な規範、正しい規範そのものを取り戻す必要がある。その正しい規範をとり戻す第一歩が今回の『新しい公民教科書』である。その意味では、『新しい公民教科書』は、中学生だけではなく、日本の全国民が読むべき公民教科書だと言える。

日本国家の解体を進める公民教育


しかし、『新しい公民教科書』の目的は、単に普遍的な国家論と国際法を取り戻すことにあるのではない。最近の日本国家の動きをみると、昨年10月の消費税増税、今年1月からの中国武漢発の新型コロナウイルスの蔓延を待たずとも、粛々と解体し滅びに向かっている。その原因は、緊縮財政にあるとか、第9条に代表される「日本国憲法」にあるとか、自虐史観に基づく歴史教育にあるとか、いろいろ言われてきた。しかし、一番の原因は公民教育にあるというのが我々の見立てだ。

家族・私有財産・国家を否定する公民教育

中学校公民教科書は、マルクス主義の経典の一つであるエンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』で展開された家族・私有財産・国家の三者をすべて否定する思想に基づき作られている。

第一に、平成24~27年度版以降の中学校公民教科書は、家族論を展開せず、家族の大切さを教えない。国は少子化対策、少子化対策と騒いでいるけれども、公民教科書は、子供が生まれ育っていく場である家族の大切さについて教育することに不熱心である。

第二に、公民教科書は、昭和20年代以来、資本主義の前提である経済的自由権の大切さを説いてこなかった。日本のように資本主義と自由民主主義の体制を維持している国では、居住・移転・職業選択の自由や財産権などの経済的自由権が極めて重要である。これらの経済的自由権は、国民が自己の力で生きることを支え、自由な精神をはぐくむために必要なものである。だが、公民教科書では、経済的自由権の重要さの理由が一言も書いていないし、経済的自由権の記述はほんの少しである。特に私有財産制を「日本国憲法」が維持していることを書かない。「日本国憲法」が私有財産制護持の立場であり、社会主義に移行するためには「日本国憲法」の改正が必要であるということは、憲法学の通説ないし多数説の立場である。にもかかわらず、私有財産制のことを記さないのである。

 第三に、公民教科書には、国家の思想が欠如している。これも昭和20年代以来の特徴である。何しろ、『新しい公民教科書』第3版(平成24~27年度版)が登場するまで、本格的に国家論を展開した教科書は存在しなかった。それどころか、ほんの10年ほど前までは、政治権力の必要性を認める教科書さえも常に少数派であった。そして、平成18(2006)年の改正教育基本法第2条で謳われた「公共の精神」、愛国心、愛郷心を記す公民教科書はいまだに少数派である。

このように公民教科書は、国家の基礎単位である家族を大切にせず、国民経済の基本である経済的自由も大事にせず、国家の思想を欠落させている。それゆえ、日本国民が公民教育を受ければ受けるほど、公民教科書の思想に染まれば染まるほど、国家は解体していくしかなくなるわけである。

国家の4つの役割を日本国家は果たしているのか

それゆえ我々は、3つの否定的な特徴をもつ公民教育から脱却する内容の教科書を作って検定申請した。特に第3の否定的特徴を問題視し、国家の思想の再建ということに力を入れた。『新しい公民教科書』では、まず国家が
1・防衛
2・社会資本の整備
3・法秩序・社会秩序の維持
4・国民一人ひとりの権利保障

という4つの役割を担っていることを強調した。そして、このことをより深く学習してもらうために、検定を受ける過程で、52頁の〈アクティブに深めよう 立憲主義の大切さについて考えよう〉というアクティブ・ラーニングの大コラムを設定した。その大コラムで、次のような設問を行った。

➀4つの役割を果たすために存在するものは何か、またそれらは何をしているのか
②現在のわが国は、それぞれ4つの役割をどの程度果たしているか

 この設問に答えるべく、いろいろ考えてみていただきたい。国民を育成すべき公民教育は、かかる設問について他者と話し合いながら深く考えることを通じて、国家とは何か、国民とは何か、考えることから始まるのではないだろうか。

第1の役割を捨て、第2の役割も少しずつ放棄してきた日本国家
 

『新しい公民教科書』を通じて、国家が4つの役割を持っているということをきちんと学習すれば、第1の役割は戦後の日本が捨ててしまったことは直ぐに知られる。ただし、自衛戦力と交戦権を肯定する「日本国憲法」解釈はいかようにもできたことであり、できることである。そうすれば、日本国家が防衛の役割を果たすことは可能であっただろう。しかし、「憲法学者」たちと亡国の政治家たちが、自衛戦力と交戦権を肯定する解釈をさせなかったのである。ちなみに、『新しい公民教科書』は自衛戦力肯定説が存在することを紹介している。

また、社会資本の整備という第2の役割も、日本国家は少しずつ放棄してきたことがわかる。財務省が均衡財政主義を説き、政治家と国民を洗脳し続けた結果、インフラの高度化どころか、高度成長期に整備したインフラの老朽化に対応することさえも行えなくなっている。自然災害の多いわが国では、他国以上に、この第2の役割が重要なのに、インフラ整備に投資するという発想が消えてしまって久しい年月が過ぎてしまった。

国民一人ひとりの権利保障という役割も壊れつつある


第4の役割すなわち国民一人ひとりの権利保障という役割についても、北朝鮮に拉致された日本国民さえも一向に取り戻せていない日本国家は全く果たしていないことが分かる。また、日本国家は、デフレ脱却を20年以上叫び続けながら、緊縮財政で国民を貧困化させ、多くの自殺者を出してきた。

いや、それだけではない。平成28(2016)年6月、「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(ヘイト法)が公布された。ヘイト法は、外国人によるヘイトスピーチを野放しにして、日本人による外国人に対するヘイトスピーチだけを許されないものとした。諸外国では、法の下の平等という法の精神が生きており、少なくとも法律上は外国人による自国人に対するヘイトスピーチも許されないものとされている。

これに対して、日本国家では、法の精神が衰退し、平成28(2016)年以来ヘイト法によって自国民を徹底的に差別し、自国民に対する人権侵害を組織的に行い続けている。日本国家は、少なくとも言論・表現の自由という分野において国民一人ひとりの権利保障という役割を明確に放棄したのである。国家の基本的な4つの役割のうち3つまでもが壊れてきているわけだから、日本国家の滅亡が危惧されるのは当然であろう。

 残った第3の役割についても、国民の貧困化を招き、日本国民を差別し続ける日本国家は、国民の支持を失い治安を守ることができなくなっていくかもしれない。私はこの点を非常に危惧している。ともかく、戦後の日本政治の歴史とは、国家の基本的役割を一つずつ放棄してきた歴史である。そのことは、『新しい公民教科書』で学べばすぐ理解できることである。

国家論や国際法を学んでこなかった各界のリーダー


 しかし、戦後教育を受けてきた私たち日本国民は、小中学校や高等学校の教育でも、そして大学教育でも、国家の4つの役割どころか、愛国心や公共の精神についてさえ学ばずに大人になっていく。だから、現在の日本国家の歪みや問題点を大局的に捉える問題意識さえ持つことが出来なくなっている。

 何しろ、戦後の憲法学の教科書は、戦前の憲法学の教科書とは異なり、ほとんど国家論を扱っていない。国家とは何かと説明せずに、統治機構論と基本的人権論を展開している。国家とは何かを説明していても、せいぜい国家の三要素(国土、国民、統治権)説が記されるだけである。例えば、比較的憲法学のスタンダードであるとされる芦部信喜『憲法第五版』(岩波書店、2011年)は、国家の説明を行っている数少ない例であるが、1頁しか国家の説明に割いていないし、三要素説が記されるだけである。三要素説は中学校公民教科書の国際社会編でも簡単に出てくるから、大学の憲法学講義は国家論に関しては中学校よりもお粗末であるということになる。

 このように戦後の日本人は、大学を出ても、国家とは何か、国家の役割とは何かを学ばずに社会に出ていく。さらに言えば、国際法もまともに学ばずに社会に出ていく。戦後教育を受けた各界のリーダーたちは、国家論も国際法も、愛国心さえも学ばないまま日本を背負うリーダーになっていったのである。まだ、1970年代までは、各界のリーダーは戦前の教育を受けた人たちだった。ところが、1980年代以降、国家論も国際法も教えない(研究もしない)戦後教育で育った人たちが各界のリーダーになっていく。それとともに、日本は凋落してきたのである。

歴史戦に勝つには公民教育の改善が必要である
 
最低限、愛国心と国家の4つの役割をきちんと教わっていたならば、少なくとも昭和52(1977)年以来発生していた拉致問題を放置することもなかったであろう。

私たち日本国民は、歴史教科書を通じて自虐史観を身に付け、日本人は差別されても仕方のない「悪人」であると思いこまされてきた。その上に、公民教科書では、国家論を全く学ばずに、国際社会では話し合いで物事は解決するという〈お花畑世界観〉だけを教わってきた。『新しい公民教科書』を作った立場からすれば、歴史教科書よりも、お花畑世界観と非国家思想を再生産する公民教科書の方が恐ろしい存在である。
私は、日本が歴史戦で滅亡するとすれば、直接に、そして第一の原因となるのは公民教育であると考えている。歴史戦で日本が勝てないのは、国家論及び国際法の知識もなく、それ以前に感覚がないせいである。この感覚のなさは、中学校公民教育で培われるというとおかしいが、定着する。

国家論及び国際法の感覚があれば、仮に日本は侵略戦争をしたという認識を持っていても、「サンフランシスコ平和条約、日韓基本条約や日中平和友好条約を結んだ以上、過去のことは言わせない」という国際社会における常識的な態度を日本の政治家も国民も貫けたであろう。さすれば、1980年代以降、河野談話などは出なかったし、歴史戦でここまで追いつめられることもなかっただろう。また、国家論や国際法の感覚があれば、「南京虐殺」など成立しないことも理解できたはずだし、それ以前に徴用を強制連行と読み替える馬鹿な理論も簡単に論破できたはずである。だからこそ、歴史教育の改善だけでは歴史戦に勝てないこと、公民教育の根本的な改善をなし遂げなければ歴史戦に勝ち生き残っていくことはできないのである。

『新しい公民教科書』を通じて国家の思想の再建を

『新しい公民教科書』の第一の役割とは、お花畑世界観と非国家思想を打破し、次代を担う中学生に、ひいては日本国民と日本国家自身に国家の四つの役割を想い出させることである。

 だからこそ、『新しい公民教科書』では、国家の思想の再建を何よりも重視した。そして同時に、家族の大切さを説き、経済的自由を基礎とした自由民主主義体制の優位性を展開しようとした。検定の中で、特に国家の思想の再建という点は相当に「待った」をかけられたが、この3つのことは基本的に達成できたのではないかと思われる。是非とも、近日出版される『市販本 検定合格 新しい公民教科書』をご一読されたい。


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