『公民教科書検定の攻防---教科書調査官と執筆者との対決』刊行

  今月下旬、ようやく、 私が記した『公民教科書検定の攻防---教科書調査官と執筆者との対決』が自由社から発売される。この書物は、『新しい公民教科書』の第三版をめぐる調査官との攻防を、執筆者の立場から記したものである。恐らくは、検定過程を報告する初めての報告書である。教科書問題に関心のある人たちは、あるいは憲法問題に関心のある人たちは、是非ともご一読願いたい。

画像


  今回は、この本の「はじめに」を掲げることにする。


   ―――――――――――――――――――


はじめに 

  平成十八(二〇〇六)年、「つくる会」は分裂した。翌十九年六月、私は「つくる会」理事になった。理事になるや、『新しい公民教科書』の代表執筆者に指名された。『新しい公民教科書』の執筆者は、『新しい歴史教科書』の場合とは反対に、ほとんど日本教育再生機構側に移ってしまっていた。それゆえ、私にお鉢が回ってきたのであろうが、ということは、著作権の関係からいって、『新しい公民教科書』の三版をつくるに際して、八木秀次氏が代表執筆者を務めた二版(平成十八~二十三年度版)をリライトすることが出来ないということを意味していた。西部邁氏が代表執筆者を務めた初版(平成十四~十七年度版)も、西部氏らが既に「つくる会」を離れている以上、リライトすることは許されなかった。一から新しい構想に基づき、新しく起稿することが必要だったのである。

  さっそく、六月二十八日と七月二十六日、歴史・公民合同執筆者会議がもたれた。平成に入った頃から中学校の公民教科書と歴史教科書の内容史を研究してきた私には、従来の公民教科書の内容は、歴史教科書の場合以上におかしなものに映っていた。おかしいという点では、『新しい公民教科書』も例外ではなかった。右記の二回の会議で私は、戦後の公民教科書の内容史について説明し、八木秀次氏が代表執筆者を務めた二版が、西部邁氏が代表執筆者を務めた初版を全体主義化し改悪したものだと説明した。その上で、平成十年版中学校学習指導要領における社会科公民的分野の内容について説明し、仮の目次案・構成案を示した。

  二度の会議を経て、主要な執筆者が決まり、同年八月二十二日に第一回公民教科書執筆者会議がもたれ、各自が受け持つ執筆箇所が決まった。それから平成二十一(二〇〇九)年十一月十五日まで、一五回にわたって、毎回ほぼ丸一日をかけた会議が続けられた。この間、何度も目次が練り直され、何度も各単元の執筆分量も変更されたこともあり、数回の書きなおしが行われた。私の場合は、多い箇所では五回ほど書き直した。家族関係の原稿は更に多くの書きなおしがされたように記憶している。原稿は会議前に予め読んでおくのが原則であったから、代表執筆者であった私は他の執筆者の原稿に目を通し、すべきコメントを考えた上で毎回会議に臨んだ。

  しかし、公民教科書執筆・制作には、いろいろな困難が伴った。教科書内容史の研究と教科書執筆・制作とは、似ているようで違うものである。まず、平成二十年三月に新しい学習指導要領が出され、同年九月には『中学校学習指導要領解説 社会編』が出された。新指導要領や解説書を読むと、何よりも公民的分野の授業時間が増加するとともに、内容構成がかなり変更され、「対立と合意」「効率と公正」、「持続可能な社会」などの新しい考え方が登場した。従って、大きく目次構成からして変更しなければならなくなったし、新たに設けることになった「序章」と「終章」は完全に一から起稿しなければならなくなった。新指導要領に沿った構成案が出来あがったのは、二十年十一月の第九回会議であった。

  次いで、小さくて金のない組織だからしょうがない面もあるが、二十一年夏にはそれまで務めていた自由社の編集者が辞めてしまった。これがきっかけになって、新しい編集方針が立てられていき、字数とか体裁とか、コラムの数や作り方とか、細かい点が変えられていった。すると、また一応確定していた原稿まで書きなおさなければならなくなった。こうして、数回にも及ぶ原稿書き直しが必要となったのである。

  ともあれ、九月から十一月にかけて、単元本文や大コラムの原稿が一応揃っていったが、このままでは到底検定申請に間に合わせることは不可能であった。少数の人間に権限を集中する必要があった。そこで、十一月十五日に開かれた最後の公民教科書執筆者会議の結果、私に代わって、当時副会長であった杉原誠四郎氏が代表執筆者の役割を果たすことになった。そして、杉原氏に全権が与えられ、氏とその指揮下にある二人の編集者が、教科書作成を統括していくことになった。

  なぜ、私が外れたのか。私は、二〇年以上も前から、今もまともに行われていない「日本国憲法」成立過程史の研究を行い、その成果に基づき、「日本国憲法」無効論を唱え続けてきた。まともに成立過程史に立ち向かえば、誰でも無効論に行き着かなければならなくなると考えている。『新しい公民教科書』の中でも、もちろん無効論を展開するつもりはなかったが、それでも真実の「日本国憲法」成立過程史を展開し、「日本国憲法」は無効ではないのかと生徒に疑問を感じさせるように持って行きたいと考えていたし、そういう趣旨の教科書原稿を書いていた。従って、私が立ててきた編集方針でつくられる教科書は検定を通らない可能性が高い、という判断が生まれたのである。

  「つくる会」の中では、検定合格しなくても原則的な教科書をつくろうという考え方と、検定合格を是非とも勝ち取らなければならないという考え方とが、常にせめぎ合っている。一人の人物の中でも、この矛盾する立場が共存している。私の中でも、二つの考え方が共存している。教科書作成過程において、ある時は原則重視の立場が強くなったり、ある時は検定合格重視の立場が強くなったりする。こういう揺れの中で、代表執筆者の役割が、私から杉原氏に移動したと考えることが出来よう。

  話を前に進めると、杉原体制の下、非常に大きな苦労を重ねて『新しい公民教科書』は完成を見た。杉原氏らは正月休みもなかったという。幸い、平成二十二年四月に検定申請し、翌年三月に無事に検定合格した。ほっとしたことを覚えている。合格したからには、採択を増やすことが目標となる。「つくる会」では、育鵬社や東京書籍その他の歴史・公民教科書と『新しい歴史教科書』・『新しい公民教科書』を読み比べ、一定の採択に自信満々であった。だが、周知のように平成二十三年夏の採択戦は惨敗に終わった。八木秀次氏を中心とするグループが、朝日新聞や教科書ネット21などの左翼集団と協同して、年表問題をめぐって「つくる会」に対するネガティヴ・キャンペーンを張り続けたからである。

  ところが、とんでもないことに、八木氏や伊藤隆氏らは、育鵬社から出した『新しい日本の歴史』を、自分たちがほとんど著作権を有しない扶桑社版『新しい歴史教科書』をリライトする形で作り上げていた。八木氏らは、「つくる会」が『新しい公民教科書』を自力でこしらえたのとは正反対の態度をとったのである。四月の時点ですでに盗作しているのではないかという疑惑が浮上していたけれども、私には、もう一つ信じられない想いがあった。私が盗作に関する確信を得たのは、採択戦が終了した八月末の事であった。調べていくとどんどん盗作の規模は広がっていき、翌年一月には、「つくる会」側著者から五〇箇所近くもの盗作を行っていたことが判明した。今日の段階では、東京書籍の平成十八~二十三年度版からも八箇所の盗作を行っていたことが判明している。

  この盗作事件は、教科書史上においてみれば、明治三十五(一九〇二)年の教科書疑獄事件以来の不祥事であり、大スキャンダルである。こんな大規模な盗作がまかり通れば、どんな形で教科書をつくっても、更にはどんな形で著作物をつくっても、許されることになる。日本の知的財産権をめぐる秩序は、崩壊してしまうことになる。日本は中韓による知的財産権の侵害を批判することさえも出来なくなってしまうことになろう。極めてむなしい仕事ではあるが、この盗作事件について知らないふりはできなかった。そこで、平成二十三年八月末から二十四年十月まで、数えて一年二か月ほど、盗作事件追及に勤務先の仕事以外のほとんどの時間を費やしてきた。

  今も盗作事件関係で時間が相当程度潰れているが、私には、検定合格以来、しなければならないと感じてきた仕事が二つある。一つは、『新しい公民教科書』の検定過程で経験したことについての報告である。二つは、平成二十四~二十七年度中学校歴史教科書と公民教科書に対する総合的な評価を行い、平成二十四~二十七年度版『新しい歴史教科書』と『新しい公民教科書』の歴史的意義とは何かを明らかにする作業である。この二つの仕事をしなければならないと考えてきた。

 だが、反省ということを知らない八木氏、伊藤氏や育鵬社の人たちの行動のせいで、二十四年九月まで全く取り掛かることさえも出来なかった。そこで、二つの仕事を後回しにするしかなくなった。そうこうするうちに、二つの仕事をやりとげる時間は、もはや私にはなくなった。どちらかをあきらめるしかなくなった。私は、公民教科書検定過程の報告を行う仕事を優先することにした。


  なぜ、『新しい公民教科書』の検定過程について記しておかなければならないと考え続けてきたか。検定過程で驚いたことが何点かある。

  一番驚いたのは、日本が君主国であるという表現がすべて消されたことである。戦後日本における表現ならまだ分からないでもないが、戦前日本においても、さらには古代から近世までの日本においても、いつの時代における表現であろうと君主国、君主と書くことを教科書調査官は許さなかった。現代日本でも、天皇=君主、元首、権威という表現は十分に成り立つものである。だが、君主という表現だけではなく、権威という表現も少なくとも戦後日本に関しては消されてしまった。元首という表現も、基本的に消されてしまった。すでに杉原誠四郎『よい教科書のための教科書制度改革論』(自由社、平成二十五年)でも紹介されているように、我々が一番残したかったのは立憲君主制という表現であるが、これも最終的に消されてしまった。

  これは、本当におかしな話である。公権解釈の上でも現実の上でも、天皇は元首である。また、公権解釈は、戦後日本をも立憲君主制としている。この公権解釈が検定では否定されてしまうのである。これは、検閲ではないかと何度も思った次第である。もちろん、検定の意義は認めるし、検定過程で教科書記述が改良された点は否めない。でも、だからと言って、公権解釈さえも否定する検定とは、極めて異常なものである。

  私は、立憲君主制という表現さえも許さない検定の異常さを世の中に広く知らしめたいと考え続けてきた。立憲君主制という表現以外にも、調査官と我々は多くの点で対立した。本書では、我々と教科書調査官との相違が際立った点を中心に、検定過程を振り返っていこうと考える。


"『公民教科書検定の攻防---教科書調査官と執筆者との対決』刊行" へのコメントを書く

お名前
メールアドレス
ホームページアドレス
コメント