近世日本までの立憲主義―――『新しい公民教科書』検定過程(11)

  検定申請本の内容―――「権威としての天皇」

  我々は、近代になる以前に、権威と権力の分離という立憲主義の要素が既に存在していたという立場から検定申請本を記していた。すなわち、大コラム「もっと知りたい日本史に見る立憲主義」で、「日本では早くから政治の権威と権力の分離が進み、明治時代、憲法を制定するときには、立憲主義の基礎がすでに確立していた」というリード文を記していた。内容は、前半で日本における権威と権力の分離を、後半で合議の精神を展開するものであった。
前半部分をまず掲げよう。『新しい公民教科書』は、「権威としての天皇」の小見出しの下、次のように記していた。

  わが国は世界で最も歴史の古い国の一つである。しかも一つの血筋の天皇家が続いてきた、世界で最も古い君主国であり、国の人口からいえば、最も大きな君主国である。明治維新により国民国家が形成され、大日本帝国憲法の制定により、立憲君主制の立憲主義の国家が成立した。この立憲君主制は欧米の政治体制を参考にしながら、わが国の伝統的な国体に調和させてつくったものである。

  古代、天皇の重要な役割は民のために神に祈ることだった。同時に天皇は、実際に政治を行う政治的権力ももっていた。しかし、歴史が進むにつれ、政治的権力から少しずつ遠ざかり、政治的権威のみをもって、国の最高の地位を保ってきた。特に、鎌倉時代に幕府政治が始まってからは、武家の政治権力に対し、政治を行う地位をあたえる政治的権威として、天皇はその役割をかえていった。それ以後の政治権力は天皇の権威を押しいただいて政治を行うことが伝統となった。それゆえに政治権力は、天皇のもとで築いた古い文化を破壊したり、民を過酷に扱うような政治は行わなかった。

  日本の文化は政治的権威によって守られ、着実に成熟していき、江戸時代の末期には庶民の識字率は欧米諸国に勝る水準に達していた。権威としての天皇が存在し続けたことにより、政治が大いに安定し、外国に比べて平和な時代が長く続いたからである。(48頁)
 

  下線部の4つの内容は、最終的に消えていった。「君主国」「国体」というのは、戦後体制のタブーに触れるもののようであり、消されていった。この問題は、後の方でふれることとする。他の2つは、なぜ消えていったのかは私には分からない。それはともかく、この前半部分で、我々は、天皇が権威として純化していった歴史を展開し、英国立憲主義の重要な要素である権威と権力の分離が日本でも成立していたことを展開したのである。

  検定申請本の内容―――「合議の精神」

  次いで後半部分では、同じく立憲主義の重要な要素である議会制民主主義の基礎になるものも存在したと展開した。すなわち、公卿会議や町寄合や村寄合などの例を引き、日本には合議の伝統と精神が存在したと展開した。すなわち、「合議の精神」の小見出しの下、次のように記していた。

  欧米諸国で議会制民主主義を生み出した合議の精神も、日本では古くから存在した。その基礎にある和を尊ぶ精神は古くからあり、7世紀、聖徳太子は、十七条憲法の第1条に「和を以て尊しとなす」とうたい、合議の精神を発展させていった

  天皇が政治の中心であった古代の律令国家の時代でも、重要なことがらは天皇が一人で決めるのではなく、有力貴族の集まる公卿会議で決めていた。合議の精神は鎌倉時代からの武家政治においても引きつがれ、江戸時代でも、幕府の役職は必ず複数の者が担当し、重要なことがらは合議で決めていた。合議によってものごとを決めれば、多くの人が納得する結論で決まりやすい。

  庶民の社会でも、村寄合や町寄合で合議によって村や町の方針が決められ、仏教寺院の教団でも僧侶が集まって合議してものごとを決められていた。 

  また、大商人の家では創業者の直系の店主は経営に口出しせず、使用人のなかから最も有能な者を支配人や番頭として選んで経営にあたらせた。店主が直接に経営に口を出すことになれば、商才に長けた代はよいが、商才に長けていない店主の代には店を倒産させるおそれがある。店主が口出しせず、有能な者が経営にあたれば、店は長く続くことになる。(49頁)

    
 上記下線部の内容は、最終的にすべて消えていった。調査官は、「合議の精神」といえるようなものは日本にはないと言い張った。それゆえ、第一段落の傍線部は全て消されることになり、第二段落の「合議の精神」は「合議の伝統」に修正させられた。第三段落の仏教寺院の例が消えた理由は思い出せないが、第四段落の商家の例は合議の例としては全く不適だったので、執筆者側の意思で省略することになった。

  日本の歴史と立憲主義は関係なし―――調査官の意見

  さて、この大コラム全体に対し、「本文が、表題と適切に関連付けて扱われていない」という意見が付いた(意見番号49番)。12月6日の検定意見申し渡しの場でも、大コラム全体が問題とされた。教科書調査官によれば、近世までの日本には立憲主義などはないということであった。

  我々は、何度も立憲主義にとって権威と権力の分離がきわめて重要であることを説いたが、調査官には、その重要性が結局分からなかったようである。それはともかく、調査官は主として次の二点のことを指摘し続けた。第一に、日本では英国における権威と権力の分離のようなものは成立していない。第二に、合議の精神といったものは日本には存在しない。12月6日の検定意見申し渡しの際、教科書調査官は、第一、第二の点について次のように述べた。

  「権威としての天皇」で述べられている権威と権力の分離は、天皇の権力を抑制するための分離ではない から、そのまま立憲主義と直接関係してこない。
  「合議の精神」で述べられている合議は、支配者層内部の合議なので、立憲主義の思想と余り関係ない。
  それゆえ、余り、タイトルと本文の内容が関連づけられていない。


  二つの傍線部は、明らかにおかしな認識である。第一の問題から見ていこう。日本史において権威と権力が分離していく成立過程に焦点を合わせてみれば、「天皇の権力を抑制するための分離」であったから、このように言うのはおかしい。また、分離が成立してしまった時点に焦点を合わせてみれば、天皇は権力ではないから、やはりこのように言うのはおかしいことになる。

  次いで第二の問題に目を転ずれば、調査官によれば、立憲主義と関連する合議とは、支配層と被支配層との間の合議でなければならないもののようである。だが、英国の立憲主義史で常に出てくるマグナカルタにしても、権利章典にしても、支配層内部の合議によって決められたものである。つまり、通常、支配層内部の合議であっても、十分に立憲主義と関連付けて理解されているのである。

  しかも、我々が挙げていた例で言えば、公卿会議や江戸幕府の例こそ支配層内部の合議であるが、町寄合や村寄合、仏教教団の例はそうではない。町寄合や村寄合の例は、むしろ被支配層内部の合議であるし、仏教教団の例は支配層と被支配層との間の合議である。いや、町寄合や村寄合の例も、場合によっては支配層と被支配層との間の合議と捉えることもできよう。

  1月12日のやり取りと修正

  ともあれ、この大コラムは大幅修正しない限り検定合しないということは明らかであった。日本歴史と立憲主義との間の距離を、申請本よりも拡大しない限り、検定合格しないことは明らかであった。そこで、我々は、タイトルを「もっと知りたい 日本史に見る立憲主義」から「もっと知りたい 立憲主義を受け入れやすかった日本の政治文化」に変更し、「権威としての天皇」の部分は変更せず、「合議の精神」の部分を大幅に修正した原稿を作成した。そして1月12日、この原稿をめぐって話し合った。このとき、調査官は次のように述べた。

  「権威としての天皇」について変更ありませんが、これでは、「立憲主義を受け入れやすかった日本の政治文化」の説明になっていない。
  「合議の精神」の部分の内容は修正されているが、この内容を「合議の精神」と評価できるのか。


  この指摘を受けて、前述のように、「合議の精神」が成立していたという書き方は、最終的にやめることになり、「合議の伝統」という言い方になった。「精神」という言い方が納得できなかったようである。

  次いで「権威としての天皇」の部分であるが、1月17日修正表では、調査官の指摘を受けて、最後に「平和な時代が長く続いたからである。」の後に、「大日本帝国憲法下の天皇が統治権を総攬する一方、実質的に立法などの三権を帝国議会などに任せる立憲君主であり続けた背景には、このような権威と権力の分離があったのである」という文を入れて閉めくくることにした。
 
  1月25日のやり取り 

  しかし、西欧のような権威と権力の分離は存在しないという考えに、調査官は囚われていた。1月25日、前述のように私は行けなかったが、調査官による修正表に対する意見が伝えられた。この大コラムを担当した調査官と執筆者とのやりとりを紹介しておこう。

調査官 権威と權力の分離が日本でもその土壌ができあがっていたということだけれどもイギリスの立憲主義の比較で言えば法的にコントロールされているのが国王の方である。それとパラレルで考えれば、日本の場合も、幕府が天皇をコントロールしたというのであれば、両者の対比になるのだが、日本の場合は、逆に天皇が幕府權力をコントロールしたというのがこの間の説明となっているので、全く逆の(説明の)ケースになっている。コントロールする側とされる側とが(逆になっている)。

執筆者 やはり権威と權力の分離という形で説明がつく(のではないか)。若干のそういうくいちがいは、国ごとに歴史がありうるから、具体的なところでは違うとか矛盾点が起こると思うけれども、大きく見たときには、そういう流れで近代国家が生まれていっているのだということに。

調査官 権威と權力が分離したことが重要なのではなくて、議会が国王を法的にコントロールできたということが重要なのだから、やはり、そこの・・・部分で比較すべきものだと思う。日本の場合は逆なので、これがどうして立憲主義を受け入れる基礎になったかというのは、中学生はなかなか理解できないのではないか。

執筆者 天皇自身が政治決定をしないという時代が長く続く。 

調査官 そのことによって幕府の權力をコントロールしていたのかといえば、つまり天皇の権威がどれほど(幕府の権力行使に)寄与したかというと、

執筆者 おそらく(表面の)現象だけを見たときにはそのようなことが一見いえると思うが、特に用もないのに天皇がいる、というように見える。しかしそういう状況なのにどうして天皇(の存在)をつぶさなかったのか(日本にあっては、天皇に権威としての役割があるとみていたからではないか)。

調査官  立憲主義とは別の話になる

執筆者 いえ、そういう権威の存在があったから、ヨーロッパの立憲主義をそんなに議論もなく、理解することができたのではないか。天皇は政治決断はしない。


  上記のように、そもそも、西欧における権威と権力の分離のことを、調査官は理解できていない。あるいは、権威と権力の分離など余りどうでも良い問題だと思っていることがよく分かる。調査官は、権威と権力の分離の問題を、議会と国王との問題と捉えている。この理解は間違っている。権威と権力の分離とは、国王と内閣との問題である。国王が権威を受け持ち、内閣が国王に代わって権力を受け持ち、責任を担うことを意味するのである。

  なぜ、両者は分かれたのか。それは、権威と権力は性質を異にするからである。権威は安定を、調和を、統合を本質とする。それに対して権力は、分裂と対立を招いてでも、国家の意思を決定し、政策を遂行して責任をとる性質を持つ。あまりにも両者は性格を異にするのである。その結果、元々国王の持っていた権力は大臣・内閣に委任され、国王自身は無答責となり権威としての役割を果たす体制が作られていったことを忘れてはならない。

  このように内閣が権力を受け持つようになったからこそ、議会は安んじて権力者を批判し、権力者を法の下に置くことが出来るようになった。つまり、調査官がこだわる、議会による国王の法的コントロールなるものは、権威と権力の分離を前提に確かなものになったのである。また、国王は権力から離れ国家を統合する権威の役割をもっぱら果たすようになったからこそ、議会と内閣の対立が激しいものになったとしても、国家は分裂せずに済むようになったのである。国家が分裂すれば、立憲主義はそもそも成立しないことに注目されたい。

  ともあれ、上記のようなやりとりの後、今度は別の調査官が議論に参加してきて、次のように述べた。

調査官 それで私たちもこの教科書全体をみんな読んでいるわけだから、理解できるのだが、やはり、審議会での審議の雰囲気を考えると、この2頁はかなりの書き直しが必要である。
  言い換えると、最初に申したように、書き直していただかないと、その件にそった修正がなされないと説明しづらい、と私たちは説明している。
  そのためには説明しやすくするためには、どこをどういうふうに直していったらよいのか、これからおりあえるところをおりあっていこうというお話を申し上げているわけだ。
  とりあえず私どものいうことを聞いていただいて、もち帰ってこれでどうなんだろうか、これをこうすればという形で、それこそだんだんあゆみよっていくという作業が、これからの作業になるが。これはもうこの本のコアだから直せませんよ、と言われると・・・。

調査官 うまくお互いの言い分がおりあえるようなところがあるのか。着地点を探していこうというのが、これからの作業になるわけで。

 
  この後、再び、この大コラム担当の調査官と執筆者との間で、やりとりが行われた。

調査官  イギリスと対比して、権威と權力の分離があった。だから立憲主義を受け入れる基礎が確立していたというのは、少し分かりづらいので、逆に、そういうことではなく、長い間日本では天皇が自ら權力をふるうことがなかったので、そういう立憲君主の形にはすんなり入れた―。

執筆者 それは同じことだ。それが我々の言おうとしていることだ。だから西洋のものとパラレルにとらえようとしないで日本ではこういうことだったので・・・ということになれば、分かりやすい。

執筆者 天皇が政治に干与しないことをもって立憲主義の基礎というのは・・・。

調査官 天皇は政治的に長い間干与していなかったというような記述であれば・・・。

執筆者 それがすなわち権威の存在なのだ。用もない(ように見える)のにどうして(天皇の存在を)つぶさなかったのか一見するとそう思えるわけだ。そこに長い歴史の知恵がある。


  上記引用のように、調査官は、日本における権威と権力の分離という言い方を嫌っている。いや、権威としての天皇という言い方も決してしないから、この言い方も嫌っているのであろう。

  だが、我々は、あくまで権威と権力の分離という点を書く方針を貫徹した。検定合格本でも、権威と権力の分離は明確に書かれている。

  2月15日の修正要求---君主国は不可

  とはいえ、2月15日、編集者が文科省に呼ばれ、「権威としての天皇」の部分も、大きく修正されてしまった。そのとき、言われたのは、主としてこの大コラムの第一段落についてであった。第一段落を引用しておこう。

  わが国は世界で最も歴史の古い国の一つである。しかも一つの血筋の天皇家が続いてきた、世界で最も古い君主国であり、国の人口からいえば、最も大きな君主国である。明治維新により国民国家が形成され、大日本帝国憲法の制定により、立憲君主制の立憲主義の国家が成立した。この立憲君主制は欧米の政治体制を参考にしながら、わが国の伝統的な国体に調和させてつくったものである。

  この第一段落に対して、次のようなやりとりが行われた。

調査官 新たに申し上げるので申し訳ないのですが、「しかも一つの血筋の天皇家が続いてきた、世界で最も古い君主国であり、国の人口からいえば、最も大きな君主国である。」というのが、君主国というのが現代にも続いたものであるので、その部分がない方がいい

編集者 「天皇家が続いてきた」で切ってしまう。

調査官  この部分はなくても文章つながるのではないか。
     (この段落の)最後の所に「わが国の伝統的な国体に調和させてつくったものである。」とあって、国体という言葉が残っているが、これは分かりづらいということで、表題に合わせて政治文化でよろしいのではないか。


  要するに、調査官は、君主国というのは不可、国体も不可、と明言したのである。「国体」という言葉は、大日本帝国憲法の箇所で使うなという指示があったから、予想されたことであった(国体をめぐる問題は、本記事では扱わないが、後に扱いたい)。だが、近世までの日本について述べた箇所で君主国を使うなというのは予想外であった。確かに「現代にも続いたものである」けれども、現代においても、天皇は単なる君主どころか、皇帝として遇されている。それゆえ、「君主国」という表現をするなというのは、不当だといえよう。

  「君主国」という表現を許さないというのは、一貫した方針のようであった。検定申請本は、第三章「日本国憲法と立憲的民主政治」の「学習のまとめと発展」の頁で、「学習の発展」として五つの問題を出していたが、その1番目に、「日本以外に、君主制の国にはどのような国があるか、調べてみよう」というものを挙げていた。この問題に対しても、「日本が君主制国家であるかのように誤解するおそれのある表現である」という検定意見が付いた(意見番号77番)。それゆえ、この問題も、「立憲君主制の国にはどのよう国があるか、調べてみよう」というものに修正された。

  この大コラムの箇所に話を戻すと、直接に調査官が要求したのは、君主国と国体の削除である。だが、「一つの血筋の天皇家が続いてきた」の部分も、間接的な言い方で削除されてしまった。「一つの血筋の天皇家」という表現が「万世一系の天皇」につながることを恐れて削除させたのであろう。

  最終稿 

  この2月15日の要求を受け入れた結果、結局、最終的に以下のような記述となった。タイトルは、前述のように「立憲主義を受け入れやすかった日本の政治文化」となった。リード文は、「日本は、なぜアジアで最初の立憲主義国家になったのであろうか。その背景を古代から江戸時代までの歴史のなかに探ってみよう。」と大きく変えられた。まず、「権威としての天皇」の小見出し下、次のように変えられた。
 
  わが国は世界で最も歴史の古い国の一つである。明治維新により国民国家が形成され、大日本帝国憲法の制定により、立憲君主制の立憲主義の国家が成立した。この立憲君主制は欧米の政治体制を参考にしながら、わが国の伝統的な政治文化に調和させてつくったものである。

 古代、天皇の重要な役割は民のために神に祈ることだった。同時に天皇は、実際に政治を行う政治的権力ももっていた。しかし、歴史が進むにつれ、政治的権力から遠ざかっていった。特に鎌倉幕府が開かれてからは、天皇は自ら権力を行使することはなかった。

 それでも、天皇の存在は政治権力に対し、政治を行う地位を与える権威として存在し続け、政治権力は、天皇の権威を押しいただいて政治を行うことが日本の政治文化としての伝統となった。政治権力は、天皇のもとで築いた古い文化を破壊したりすることは少なく、「民安かれ」と願う天皇の思いを受け止めて、民を過酷に扱うようなことは少なかったとも考えられる。

 権威としての天皇が存在し続け、政治が大いに安定し、外国に比べて平和な時代が長く続き、文化は着実に成熟していったと考えられている。

 大日本帝国憲法下の天皇が統治権を総攬する一方、実際の政治は立法、司法、行政の三権に任せる立憲君主であり続けた背景には、このような権威と権力の分離があったのである。(48頁)


  続けて、「合議の伝統」見出し下、次のような記述となった。

 日本では古くから話し合って物事を解決し、できるだけ力の争いは避けるべきだという考え方が存在していた。

  7 世紀、聖徳太子は、十七条憲法の第1条において「和を以って尊しとなす」と謳い、政治は一人だけの独断ではなく、人々が議論をつくして行わなければならないと説いた。天皇が政治の中心であった古代律令国家でも、重要な事項は、有力貴族が集まる公卿会議で決めていた。

  合議の伝統は、鎌倉時代からの武家政治においても引きつがれ、江戸時代でも、幕府の役職は必ず複数の人間が担当し、重要なことがらは全員の合議で決めていた。合議によってものごとを決めれば、極端な結論が避けられ、多くの人も納得する結論になりやすい。

  庶民の社会でも、村寄合や町寄合によって村や町の方針が決められていた。その経験が、近代において町村議会を生み出していく基礎になっている。

  このような歴史的背景のもとに、明治政府を樹立するにあたって、いちはやく「五箇条の御誓文」を出し、その第1 条で「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と宣言することもできたのである。

  日本ではこのように、古くから合議を重んじる伝統があったために、近代西欧で発達した議会での話し合いを重んじる立憲主義を容易に受け入れることができたのである。(49頁)


  結局、政治的権威と権力の分離という、最も重要な点は残すことができた。だが、前半部分では、君主国や国体、「一つの血筋の天皇家が続いてきた」という表現は消されてしまった。また、後半部分では、「合議の精神」から「合議の伝統」に変えられてしまった。とはいえ、全体を通読していただいたら分かるように、検定過程の攻防をふまえて、この大コラム全体の論理はすっきりした感がある。検定を通じて、教科書記述は、質的には向上したのではないかと考えている。

  記述の質が向上したとはいえ、この大コラムをめぐる攻防を振り返ると、公民教科書をめぐる検定がいかにおかしなものかが分かる。第一に、天皇が権威を、幕府が権力を分け持つ権威と権力の分離の体制という捉え方は、一般的なものである。第二に、日本が君主国であることは国際的に認められていることである。第三に、国体という言葉は学問用語として成立している。さらに言えば、第四に、「一つの血筋の天皇家が続いてきた」のは、明らかな事実である。にもかかわらず、これら四点の記述を調査官は阻止しようとしたし、実際に権威と権力の分離以外の三点の記述を阻止したのである。極めて、おかしなことと言わねばならない。我々が「もっと知りたい 日本史に見る立憲主義」で展開したかったことは、まさしく戦後レジームに挑戦する内容を多く含んでいたからであろう。

   



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