国家論3、国家の姿を消させる―――『新しい公民教科書』検定過程について(8)

 単元12のところで記したように、教科書調査官は、国家対国民個々人ではなく、政府対国民個々人との関係と言う形で書かせようとした。そして、愛国心と独立心の関係を論じた部分から「愛国心」を削除させた。調査官は、国家論を書くなとは決して言わないけれども、出来るだけ国家の姿を教科書から消そうとする姿勢を示していた。今回は、その姿勢が見られた部分を拾っておこう。

(1)検定番号1番……「持続可能な国家」は書かせない

 新指導要領は、内容(4)ウ「よりよい社会を目指して」で、「持続可能な社会を形成するという観点から、私たちがよりよい社会を築いていくために解決すべき課題を探求させ、自分の考えをまとめさせる」と記している。内容ウは、社会科のまとめにあたる部分であるが、ここに書かれた「持続可能な社会」という考え方は、指導要領改訂の1つの目玉であった。

 我々は、「持続可能な社会」の中に、社会、国家、世界を含めて考え、幾つかの箇所で「持続可能な国家」という書き方を行った。検定申請本は、単元1「人類の歴史と国家」の中で、「そして今後とも日本は、平和にして持続可能な国家、社会の形成を目指して、努力していかなければなりません」(3頁)と記していた。また、単元4「現代日本の課題」では、「冷戦が終結し、グローバル化というまったく新しい世界情勢に直面している今、公正で豊かで活力のある、持続可能な、世界から尊敬されるような社会、国家の形成を目指さなければなりません」(8頁)とも記していた。更には、終章タイトルを「持続可能な国家と社会を目指して」としていた。

 このように「持続可能な国家」という書き方を何カ所で行ったのは、これまでの公民教科書には、そもそも国家と言う言葉がほとんど出てこず、世界=諸外国の発展のためには日本は滅んでも構わないという思想がほの見えていたからである。

 しかし、「持続可能な国家」という記述に対しては、「『持続可能な国家』は、学習指導要領の『内容(4)』の『イよりよい社会を目指して』に照らして、用語として不適切である」と記されていた(検定番号1番)。それゆえ、12月6日に検定意見を聞いたとき、真っ先に言われたのが、「持続可能な国家は、用語として不適切」だという事だった。調査官によれば、「持続可能な社会」「持続可能な世界」はよろしいという事だった。

  指導要領に沿って言えば、調査官の言っていることは不当なわけではない。しかし、「持続可能な世界」は良くて、「持続可能な国家」はダメという事は、まさしく、世界と言う名の諸外国のために日本は滅んでも構わないという価値観の表明なのである。そのような価値観は、指導要領自身のものである。「内容(4)私たちと国際社会の諸課題」全体を見ても、世界と人類を目的とする観点ばかり出てきているが、国益の観点は全く存在しないことに注目されたい。その点は、以下の当ブログ記事で記したので参照されたい。


  公民教科書改悪の根本原因は学習指導要領に有り--学習指導要領案〔公民的分野〕へのコメント、平成20年
  http://tamatsunemi.at.webry.info/201108/article_57.html

  
   結局、「持続可能な国家」という表現はすべて消されることになった。


(2)「失われる国家意識」はダメ 

  国家を消したいという調査官の態度は、単元4「現代日本の課題」の記述に対しても現れた。ここで、申請本は、「目標の喪失」「少子高齢化の進行」「活力の低下」「失われる国家意識」という4点の問題点を挙げ、そのまま4つの小見出しを掲げた。だが、最後の「失われる国家意識」という小見出しの部分について、「国家意識と拉致問題、領土問題、国旗・国歌、国民のモラルの関係が不明確で、全体として調和がとれていない」という検定意見が付いた(検定意見6番)。申請本は、「失われる国家意識」の小見出し下、次のように記していた。

  1977(昭和52)年以来、100 人以上の日本人が北朝鮮によって拉致されました。ところが、日本政府も国会もマスコミも、20 年以上のあいだ、この問題に関心をはらいませんでした。国家が果たすべき最も基本的な使命は、国民の生命と安全を守ることです。基本的な使命をなおざりにしてきた日本政府、国会、マスコミ、そして国民は、健全な国家意識が薄れ、失われてきたといえなくはありません。領土問題にも強い関心をもっているとは必ずしもいえません。国旗・国歌についても、諸外国と同じように大切にしているとはいえません。日本国民のモラルも低下してきているという指摘があります。(9頁) 

この部分について、12月6日、調査官は、次のように述べた。

 中学生がどこまで理解できるかな、色々な問題が入り込んでいるので、「失われる国家意識」とまとめられると分かりにくいかなと思われる。 

「色々な問題が入り込んでいる」のは事実であるが、これらの問題をまとめると、「失われる国家意識」ということになるのは当然である。だが、国家意識という言い方を調査官が好まないという事は明確であった。結局、我々は、国家意識の問題ではなく、国民としての自覚の問題だという形で書くことになった。検定合格本では、「国民としての自覚の大切さ」という小見出しの下、以下のような記述となった。


  1977(昭和52)年以来、多くの日本人が北朝鮮によって拉致されたといわれています。ところが、日本政府も国会もマスコミも、20 年以上、この問題にほとんど関心をはらいませんでした。
  国家が果たすべき最も基本的な使命は、国民の生命と安全を守ることです。基本的な使命をなおざりにしてきた日本政府、国会、マスコミ、そして国民は、同じ日本国民の苦難に共感する力を失ってきているのではないでしょうか。国民としての自覚が薄れ、失われてきたということもできます。(9頁)


 国旗国歌問題などが省略されたことで、話はすっきりしたとはいえるかも知れない。しかし、今読み直してみると、上記記述のまとめは、やはり「失われる国家意識」というのが一番良いように思われる。

(3)単元6「共同社会と利益社会」に国家を登場させるな 

 これまでの展開から分かるように、ともかく、教科書検定においては、国家という存在は忌避される傾向がある。従って、教科書調査官は、「第1章 個人と社会生活」の総論的な部分である「単元6 共同社会と利益社会」でも、共同社会あるいは利益社会の例として国家を取り上げることを許さなかった。申請本では、この単元で2箇所、国家について記していた。まず、「共同社会と利益社会」の小見出し下、次のように記していた。

  国家も、基本的には、広い地域的な結びつきによって自然発生した共同社会としてとらえることができます。(20~21頁) 

また、「公正と効率」の小見出し下、次のように記していた。

  国家は基本的には共同社会ですが、そのなかで国民が競争しながら豊かな生活を築きあげていく場でもありますから、そのために公正と効率が求められます。従って、国家は利益社会の性質ももっていることになります。(21頁) 

  上記の様に、我々は、国家を基本的に共同社会と捉えたうえで、利益社会の側面も持っていると展開した。だが、
前者には「国家について、理解し難い表現である」という意見がつき(検定意見番号16)、後者には「共同社会、利益社会、国家の概念的な関係が理解し難い表現である」という意見がついた(意見番号18)。12月6日の検定意見の言い渡しの場で、調査官は、次のように述べた。

 共同社会と利益社会と言う二つの概念によって社会の理解を分かりやすくするという趣旨は分かる。しかし、二つの分類に対して、国家というものを持ちこんでしまうと、複雑になりすぎて、中学生にとって理解が困難になるのではないか。 

  国家が共同社会であるか利益社会であるかという問題以前に、国家の例をここに扱うこと自体が許されないことだったのである。表向きは中学生の理解しやすさと言う点を挙げているのであるが、国家について出来るだけ教育させたくないという調査官の考え方が透けて見えるところである。結局、検定合格本では、上の二箇所とも削除することになった。

  以上、国家をキーワードに検定過程を見てきたが、最後に三つの事を確認しておきたい。
  第一に、教科書調査官は、国家論を展開することがダメだとは言わなかった。戦後の公民教科書史を振り返ると、対外主権は書かれても、きちんとした国家論を展開した教科書は一つも存在しない。従って、国家論を書かせない検定が、一貫して行われてきたのかもしれないと思っていた。だが、私が経験した検定過程を振り返ると、その推測は間違っていたことを知った。教科書執筆者の方が、積極的に国家論を展開しないようにしていたのである。

  しかし、第二に、国家論の展開は認めつつも、防衛が第一の役割であるというイメージにつながる書き方に過剰に反応した。そして第三に、国家の姿を出来るだけ消すように要求したのである。



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