悲惨な5か月を振り返る―――きちんと仕事をした者ほど損をする

  4月27日、一応、予定していた公民教科書関係の仕事を終えた。休養をきちんととろうと思い、一昨日は寝て暮らした。昨日から日をまたいで、記事を認めることにした。

令和元年11月27日から4月27日まで

 11月27日に文科省で検定意見書を受け取って以来、検定に対する対応に追われつづけた。一応、2月12日に修正表を提出し、2月18日に再提出した。その後、2月20日、27日と修正指示が届き、検定過程が我々の目に見える範囲では27日に終了した。

 2月20日前後に随分久しぶりに3、4日ほど休養してから、市販本作成に取り掛かった。市販本の原稿とは、検定過程を明らかにするものである。他の執筆者に3本ほど論考を書いてもらい、私は検定過程の全貌の論考作成と資料作りを行うとともに、他者の原稿の整理も行った。市販本原稿が終わったのが3月一杯であった。

 3月24日に『新しい公民教科書』が正式に検定合格したので、見本本作成にかかった。普通は簡単な仕事のはずだが、検定過程でズタズタに文章を変えられていたから、結構、原稿づくりが大変だった。さらに、それ以上に面倒だったのが4月に入ってからの文科省による嫌がらせだった。何よりもすぐに自主修正の届け出に対してOKをすぐくれなかった。最終的にはくれたようだが、ずいぶんやきもきさせられることになった。印刷段階もややこしいことがあり、細切れに何度もゲラ確認をすることになった。

 同時併行で、今度は4月4日から『史』に載せる公民関係原稿を作り出した。10日ほどでできると思っていたが、市販本校正や帯の作成などで時間をとられ、完成したのが4月27日であった。市販本の帯の作成くらいは私がすることはないだろうと予想していたが、結局、原稿作成からゲラ確認、校正までほとんど私がする羽目になった、

 まだ、2月20日頃までの3か月間は編集者一人と私の二人で仕事をしていたが、20日頃以降の2か月間は、一人でプランを練り、黙々と仕事を続けることとなった。なかなか原稿に対するコメントももらえず(もちろん、少しはあるのだが)、だんだん孤立感に苛まれることになった。さいなまれるというのは大げさだが、元々あった孤立感が深まったことは確かである。

 平成30(2018)年4月から31年3月……代表執筆者兼編集長

振り返れば、2018年4月から今年4月までのうち、1年半という歳月を、私は公民教科書作りと検定のためにつぶしてきた。途中の数か月を除いては、公民関係以外のことを、2018年の11月を除けば一切できなかった。牢獄に一人入れられたような感じであった。もちろん、最初からそう感じていたわけではなかった。そのようにはっきりと感じ出したのは、この3月になってからである。

教科書作成過程では2018年12月下旬から2月頃まで、検定対応では2019年11月下旬から2020年2月20日頃までの5か月間だけは、私と一人の編集者が相談しながらスケジュール管理し、共同で具体的な仕事を進めてきた。しかし、それ以外の歳月は、私が編集長の役割を兼任し、完全に編集も含めて取り仕切る状態であった。

教科書作りの時期から述べれば、2018年4月以来1年間、16回の公民編集会議を主宰し、会議日程を連絡し、議事録を作り送った。日程連絡や議事録づくりは編集長の仕事だが、私がするしかなかったのだ。ひどい話ではあるが、私が一番スケジュールを理解していたし、自己のプログラムを持っていたから、合理的な進め方ではあった。

原稿作りはと言えば、新設原稿の3分の2を私が作り、文章整理というよりも、ゲラにする以前の原稿的なものを作っていった。ただし、今回基本的に手を付けなかった単元の原稿は、一度検定を通っているわけだから、こなれない文章であっても手を付けないことにした。

全面改訂していれば落とされた可能性があった

ついでに言えば、文科省は歴史だけではなく公民も落としに来る恐れがあると感じていたから、私は、極力現行版を変えない方針で臨んだ。それでも世界情勢の変化により国際社会編の第5章を中心に現行版のままではどうにもならないところも多かったので、3割程度を修正するだけの形にした。

 完全に新設した部分又は大幅修正したため実質的に新設部分とみなせるのは全体の3割程度である。これらの新設部分には9割方検定意見が付いた。この点をふまえると、もしも全面改訂していたならば、単純計算でいけば、今回付いた129件の検定意見が3倍に膨れ上がることもありえたわけである。

 もちろん、今回の新設部分は教科書調査官と対立しそうな分野に関する修正が多かったから、単純に3倍になるわけではない。だが、全面改訂となれば、ミスがかなり増えていたと想像される。だから、2倍の250~260件程度に検定意見が膨れ上がる可能性は十分あった。公民の頁数は246頁プラスアルファで260頁弱であったから、100頁あたり100件程度の検定意見が付くことになり、不合格にすることも十分できたのだ。そこまでいけば、文科省は、一発不合格にするために、100頁あたり120件以上の意見をつけるところまで水増ししたであろう。

どんどん仕事が押し付けられていった3か月

編集過程について続ければ、10月末までで単元本文と側注の原稿を完全に作り、それをデザイナーに渡しゲラ化してもらった。そして、それ以降は文章には手を付けない方針で行くことにした。手を付ければつけるほど、実はしょうもないミスが生まれるからだ。ほぼこの方針は最後まで貫かれた。

11月下旬からは写真や図版を割り付けたり、索引や年表を作ったり、校正をしたりという作業が中心になった。狭い意味の編集作業である。それゆえ、私には余裕ができると思っていた。自己の研究も再開できるかもしれないと甘く考えていた。

  だが、そうはならなかった。写真に関しては編集者が基本的に担ってくれたが、図版のための基礎資料集めなどは私も半分ほど行わなければならなかった。編集者は初めての仕事なのによくやってくれたのだが、他の仕事も含めて上手に使われていたため余りにも仕事量が多かったから、私が公民の図版のための基礎資料集めの半分程度、あるいはそれ以上肩代わりしなければ先に進めなかった。

  その結果、索引、年表づくり、法令集づくり、目次つくりは完全に私が一人で行う羽目になった。校正も私が中心的に担った。ショックでよく覚えているのは、校正を一部だけでもしてもらおうと考えていた公民の主要執筆者が歴史に駆り出され、歴史教科書の校正を全面的に行っていることを知った時だった。それまで二人公民のために動いてもらおうと考えていた人間を取られていたから(これは2、3か月前のこと)、腹が立ったことを覚えている。

 狭い意味の編集作業の段階になっても、この3か月ほどだけは編集者と私が共同で編集長を務めるという感じではあったが、公民に関する一番多くの仕事を相変わらず、私が果たさなければならなかった。執筆者の仕事の6~7割、代表執筆者として文章全体をまとめる仕事全部、編集長の仕事の7割、編集補助の仕事も6割以上を私が行った。総じて、仕事全体の7割程度の仕事をこなしたことになるのではないか。

 この2018年度の一年間、どんどん悲惨な目に遭っていった。仕事がどんどん押し付けられていった。正確には、押し付けられるというのではなく、今この仕事をしなければならないが、誰もできる人間がいないから私がやるという感じで、仕事が増えていった。こんな感じであったから、仕事をともかく増やさないという方針で仕事を進めるしかなかった。1月上旬に文章を直したいという声があったが、私は仕事を増やしてミスを犯す機会を減らすためもあり、文章の修正を禁じた。

  ともかく、特に悲惨だったのが、この11月下旬から2月までの3か月であった。私の中でどんどん毒がたまっていった。自分がその毒で自家中毒を起こしているのが良く分かった。

  異常に働いた今回の検定過程


 しかし、今回の検定過程では、もっと大きな毒がたまっていった。4月に検定申請した後、11月末から検定過程が始まった。毎日曜日、検定対応会議のために上京した。この会議の議事録も私が作った。検定意見に対応して、他の人が立てた案も参考にして修正案を立てた。これを2月初旬まで何度も繰り返した。

 なかでも、12月下旬から1月初旬が一番大変だった。異様に働いた。特に12月27日に文科省に編集者らに行ってもらい聴き取りをしてきたのだが、28日(土)には録音を聴いて聴き取り記録を作り、それを基に修正案を作って、29日(日)の会議にかけてその時点での修正案を完成させた。アドレナリンが異常に出ていたのであろうが、異常に素早く的確な自己の仕事ぶりにびっくりしたことを覚えている。同時に、古希を過ぎた老人がこんなことをしていたのでは危ないとの感覚を持ったことも覚えている。

  とはいっても、12月下旬から2月中旬まで私より大変な思いをした若い編集者がいた。この編集者の文章力に助けられもした。例えば、修正案をつくる際、私が何度つくっても調査官のOKをもらえなかったものを編集者の文章で救われた場合も2、3件はあった。いや、それ以上に、アクティブラーニングを取り入れる修正案を随分考えてもらった。

  また、12月から1月末まで、編集委員会に集まった公民執筆者たちは、熱心に問題意識をもって色々な知恵を出してくれたので、大いに助けにも励みにもなった。この二点のこと、特に編集者の踏ん張りがなければ、私の異様な頑張りも無駄に帰したであろう。

1年半の悲惨な生活を送り分かったこと

  しかし、ここまで悲惨な経験は初めてのような気がする。少なくとも1年半も悲惨な経験が続くとは初めての気がする。

  以上の悲惨な経験を経て、何点か分かったことがある。一つは、きちんと仕事をしたものほど損をするということだ。私は押し付けられた仕事を普通に黙々と比較的正確にこなしていったが、編集長が公民用には用意されなかったため、本来する必要のない仕事で忙殺された。私は、代表執筆者として忙しかったのではない。編集長として、一部は編集補助者として、不本意に、筋違いに忙しかったのだ。とんでもない話である。書いているうちに、みじめになってくるし、頭が痛くなってきた。

  こちらが仕事をきちんとすればするほど、「小山に任せておけば大丈夫だ」という幻想が生まれ、編集長さえもいない公民に人を補充しようとも思わない、いや逆に他で人が要るようならば公民から引き抜いてしまえと考えたようである。そして、私は、一人で牢獄に閉じ込められてしまった。

  二つは、「つくる会」は、いや世間は本当に公民教科書に興味がないなぁということだ。だから歴史戦に進展がないのだということは、何度も私が言ってきたところである。だが、もう一つ、この点は厄介な現象を生んだ。公民に興味のない人たちは、それだけで一個の共同体を作っている。公民のことを専門に考えている人間は、公民の執筆者たちの中でも私一人だけだから、自ずから私は孤立していくわけである。

  三つは、きちんと仕事をしたものほど損をするということは一つの確かな事実だが、それでも、とりあえずきちんと仕事を行ったことは正解だったということである。ともかく、腹を立て続けながら、検定過程に立ち向かった。その過程で、いろいろなことを勉強した。検定過程の欠点、調査官や公民小委員会の思想について改めて勉強になった。また、憲法思想について改めて考えることもできた。さらに、予想外に頑張ってくれた人、才能を発揮した人がいたことも発見だった。

  しかし、書いているうち自家中毒を起こしてきた。いずれ機会が来たら、何年か後だろうが、もっと正確なこと、思っていることをそのまま記すことにする。

補記1……書いたあと、なんでこんな非常識なことが起きたのか、考えた。まずはみじめになった。一言で言えば、教科書制作というものに対する私の無知ゆえだ。私には、10月段階までの単元本文と側注をつくるところまでは想像できた。しかし、11月以降のことが全く分かっていなかった。普通はこういう陣容でこういう日程で進めるものだというモデルが、私の前にはなかった。そういうモデルがあれば、もっと何度も文句を、筋道だって言えたと思うが、よく当時は理屈が分からなかった。今になって、半分程度理屈がわかり出したところである。とはいえ、文句を言っている暇がなかったし、私一人が文句を言うだけの状態は変わらなかっただろう。公民軽視という感覚は「つくる会」の空気だからだ。

 補記2……この二年間ほど、「つくる会」における「縁の下の力持ち」をやり続けた日々はなかったように思う。その中で、何度も「つくる会」につぶされてたまるかと思った。このまま押しつけられた仕事をやり続ければ、頭の点でも身体の点でもパンクして自己が終わるのではないかと何度か思わざるを得なかった。とりあえず、1月以来の予定をこなしおわった段階で、また同じことを思った。「つくる会」につぶされるわけにはいかない。何とか生き延びて、公民教科書に関する問題提起を行い、さらには戦時国際法の研究に戻りたいと念じている。

補記3、今日は偽憲法記念日、されど……2020年5月3日記す
  気付いてみれば、今日は偽憲法記念日だ。しかし、「日本国憲法」なるものについて思考する暇も体力もない。4月27日に仕事を一段落させてから、ずっと、ある意味一つのことを考えている。なぜ、こんなにしんどかったのか、ということだ。
  ぼんやり考えているうちに、当たり前のことに気付いた。もちろん仕事量が多かったこと、文科省の検定が厳しかったことが基本的な理由ではある。だが、それは頭脳的、身体的な辛さの理由ではあるが、精神的な辛さにとってはそれほど大きな理由ではなかった。今もそうだが、結局、私が具体的な仕事を頼める人間が組織構造的に存在しなかったことが、少なくとも精神的な辛さの一番の理由であった。
  私が具体的な仕事を頼める人がいたのは、2018年11月下旬から2019年2月・3月、2019年11月27日から2020年2月20日より少し前までの半年程度であった。ところが、これ以外の1年間ほどは、すんなり仕事を頼める人間が全くいなかったのである。言ってみれば、編集長の不在という構造的な問題であろうか。
  とはいえ、これから、公民教科書の問題に関する認識を広げること、『新しい公民教科書』の思想を広めることに、力を尽くそうと思っている。

補記4……2020年5月9日記す
 5月7日、とりあえず、本ブログに『新しい公民教科書』の良さ、画期性を記した文書を何本も掲載した。ホッとすると同時に、鬱が襲ってきた。原稿校正などの仕事をしながら、次の仕事にかからなければならないが、鬱をはねのけることができない。一部は疲れのせいだから多く眠ることで少し脱しつつもあるが、補記3で書いたことも基本にあるから、孤立感は一向に軽減しないし、精神が委縮していることが良くわかる。それにしても、こういう質の精神の萎縮は、人生初のことのように思う。ただし、鬱の半分は、次に迫っている仕事に取り掛かるエネルギーがわいてこないことに由来するから、今迫っている仕事を片付けることによって鬱を振り払うしかないのであろう。

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