一杯のコーヒーのために国を売った男・宮沢俊義--高尾栄司『ドキュメント皇室典範』を読む

はじめに

 本書の意義

 先月下旬、皇室典範の成立過程を研究するために、高尾栄司『ドキュメント皇室典範』(幻冬舎、2019年)を読んだ。極めて面白かった。ただし、本書は、「日本国憲法」の天皇条項作成過程に3分の2の紙数を割いており、皇室典範そのものの成立過程には3分の1しか用いていない。しかも、典範案を実質的に作成した臨時法制調査会第一部会の小委員会については詳しく見ているが、臨時法制調査会総会や枢密院、貴衆両院の審議などには触れていない。それゆえ、本書を読んでも、典範成立過程史を把握できたという感覚は全くない。一部を把握できただけという感じである。

 しかしながら、本書は、国体を破壊しようとする宮沢俊義と何とか国体を守ろうとする高尾亮一(高尾栄司氏とは親戚関係はない)との戦いの歴史として、皇室典範成立過程史を描いている。この描き方は、皇室典範成立過程史の本質を半ば捉えているように感じた。それゆえ、本書は極めて意義のあるものだと言えよう。

宮沢俊義の思想的転換の理由がわかった

 私にとっても、本書は興味深い意義のあるものだった。天皇現人神観と国体政体二元論をとり国体護持論者であった宮沢俊義が、昭和21年以降、何故に国体破壊に邁進していくのか、私には30年以上前から疑問であった。占領下で多くのインテリがコロッと思想を転換していくが、宮沢ほど劇的に転換させた人間はいないし、宮沢ほど積極的に転換させた人間はいない。そして、東大憲法学講座の教授であり続けた宮沢ほど、国体破壊を進めるうえで影響力を持った人間はいない。ともかく、宮沢の「変質」の理由が長らく大きな疑問であった。もちろん、抽象的には保身のためという程度のことは分かっていたが、もう一つ具体的にわからなかった。しかし、本書を読む中で、その疑問に対する答えが具体的に見つかったと感じた。本書の記述を基にまとめていこう。
 
一 宮沢は自己保身のため国家破壊の道を選んだ

昭和21年2月1日、毎日新聞が松本乙案をスクープ報道した

  答えは何か。国家よりも自己の生活を優先したことである。後で紹介するが、国家の行く末よりも、自己の「コオヒイを一ぱいのみたい」という欲望を優先したことだった。なぜ、宮沢は、そのような想いに駆られることになったのか。

 その基は、毎日新聞が「日本国憲法草案」をスクープ報道したことであった。毎日の西山柳造記者は、日本側で憲法改正作業を進めていた憲法問題調査委員会事務局で、松本乙案を見つけ、これを日本側の草案として記事にしてしまったのである。この松本乙案の執筆者は、有名な話だが、宮沢俊義である。

 このスクープ報道を受けて、GHQは、日本側草案が余りにも保守的すぎると判断して、GHQ案を作成して押し付けたと理解されている。実は、私に言わせれば、松本乙案は当時の日本側民間草案の最大公約数的な草案であり、軍事に関する規定を欠いているが、英国型の議院内閣制をつくるにはなかなかいい案であった。そもそも保守的というのは言いがかりであり、松本乙案は、帝国憲法76条のうち46条を修正ないし削除している。大改正案だったのである(拙著『「日本国憲法」無効論』草思社、2002年)。

 それはともかく、松本乙案を、GHQは目の敵にした。松本乙案をつくった宮沢は、公職追放されるかもしれない運命に立たされた。

2月13日、GHQ案交付

 昭和21(1946)年2月13日、吉田外相邸でGHQ案が日本側に渡された。この草案のことを幣原首相、吉田外相、松本国務大臣、白州次郎、長谷川通訳の5名だけが知っていることになっていた。極秘扱いとされ、GHQ側は「漏らせば軍法会議にかけるぞ」と日本側を脅していた。

 GHQ草案は20部つくられナンバリングされていた。1から5の5部はGHQ民政局に保管され、6は吉田、7は松本、8は長谷川、9から20は閣僚用とされた。松本は、7を2月13日に憲法問題調査委員会で一緒に仕事をしてきた馴染みの宮沢に渡していた。宮沢がGHQ草案を2月13日に既に手にしていたことは、ずっと秘密とされ、25年後の昭和46(1971)年にようやく明らかになったことである。

宮澤は天皇退位論者・南原繁の所にGHQ案を持ち込んだ

 GHQ草案を手に入れると、宮澤は、その2月13日、南原繁の所へ持っていく。南原は東大法学部長で、天皇退位の終戦工作をし、終戦後にも高松宮に接近し、天皇退位を進言していた。当時は、東大総長になっていた。

2月14日、有名無実の憲法研究委員会設置

 2月14日、東大総長南原繁は、東大内に憲法研究委員会を設置した。その委員長には宮沢がなった。この研究委員会の設置は、実際は、宮澤の主導によった。高尾氏は次のように記している。

 宮沢がGHQ民政局草案を見て、天皇条項の内容に驚くと、その場で豹変し、南原に憲法研究委員会の設置提案をし、その翌日には委員長になっていたのである。同委員会は十日後に始まるが、南原は委員会に一度も出席していない。委員会に出席した我妻栄も、そこで民政局草案が披露され、逐条読み上げられると一同二十名は唖然とした。ただし、詳細については「記憶がない」と記している。          174頁

宮澤は公職追放を恐れて憲法研究委員会を設置した

 しかし、何故に、宮澤は、軍法会議にまわされる危険を冒して、GHQ案を持ち出し、憲法研究委員会という組織をわずか一日で作る必要があったのであろうか。上記引用にもあるように、宮澤は、GHQ案を読むと、天皇条項に関して、自己がつくった松本乙案との違いにびっくりした。ともかく、公職追放されないようにふるまおうと考えたのである。保身を考えたのである。高尾氏は、そのあたりの宮澤の事情について次のように述べている。

 宮沢は後に、
祖国のゆくえというような問題をさきに心配すべきだったと思うが、その時は、(略)お恥ずかしい話だが、よくよくものを深く考える力を失っていた」(「そのころの生活」『世界』1955年8月号)と言葉を濁している。当時は米や卵を手に入れることの方が切実で、彼は、
コオヒイを一ぱいのみたい。これがその時の最大のあこがれだった
とも続けている。その頃、彼の家族は長野県に疎開していた。しかし、東京での単身生活とはいえ、彼のように松本委員会の中核委員として活躍していた身分からしたら、一般庶民のような困りかたではなかったはずである。そのような中で、宮沢が直面していた一番の不安といえば何であったか?それは公職追放以外にあるまい。というのも、二月十三日は、その渦中にあったからである。    174~175頁


 「コオヒイを一ぱいのみたい」宮沢は、もう一度言うが、GHQ案をみて驚いた。GHQ案第2条は、「皇位は、世襲のものであり、国会の制定する皇室典範に従つて継承される」(『日本国憲法の制定の過程Ⅰ』269頁)と規定していた。GHQ案は、第一に男系論ではなく、女系容認論であった。第二に、皇室典範を法律とするものであった。

 対して宮沢は、第一に、戦前期に遡らざるとも、松本乙案に現れていたように男系論者であった。第二に、皇室典範の独立支持者であった。このままでは、宮沢は、ほぼ間違いなく、公職追放になる運命であった。しかも、最後の下線部にあるように、宮沢がGHQ案を持ち出した2月13日は、公職追放のピークであった。いや、宮沢は、下手したら、戦争犯罪人として逮捕監禁されることも考えられる存在であった。

共産党を中心にした「戦争犯罪人を追放せよ」運動

 当時、東京裁判準備のため、多くの日本のリーダーたちが「戦争犯罪人」として逮捕されていった。連合国のこの動きと連動して、国内では「戦争犯罪人を追放せよ」という運動が行われていた。アメリカ国務省日本代表部(POLAD)で改憲工作をしていたジョン・エマーソンは、1944年10月22日、延安に行き、野坂参三と会っていた。エマーソンは2か月間延安に滞在したが、野坂とぶっ続けに話した。野坂は、天皇制の改革、戦争犯罪者の処罰、これと関係のある官僚、学者の処罰と追放を強調していたという。

 1946年1月12日、野坂は日本へ戻る。野坂は、GHQの情報員になることを約束し、日本の土を踏む。野坂は、国内新聞だけではなく、米軍紙『星条旗』でも民主主義の英雄と祭り上げられた。そればかりか、GHQ司令部で、講演会を開催し、民政局員たちが聴講した。そして、日本共産党の党是に、戦争犯罪人追及が入っていた。高尾氏は次のように記している。

 そのような中、POLAD員エマーソンが、野坂や共産党を使って、旧体制の遵奉者「宮沢俊義」と告発させたら、宮沢の逮捕など即可能であった。そして、そのことを一番理解していたのが宮沢本人だったはずである。  183頁


 このように、宮沢は逮捕される可能性さえあったわけだから、公職追放の可能性は非常に高かった。周知のように、昭和21(1946)年1月4日、GHQによる公職追放令が出された。「二月に入ると、その内容も具体化され厳しさが知られてくるが、松本国務相が民政局案を手された二月十三日あたりこそがその絶頂にあった」(184頁)。2月13日付「アカハタ」では、「追放令サボル政府」の見出し下、「政府機関にスクッてゐる反動的官僚分子」を追放せよと主張していた。また、2月13日付『朝日新聞』は、一面に、「教育理念の再確立」との記事と、野坂参三の「民主主義革命の展開」という寄稿文とを載せていた。

 つまり、2月13日とは、公職追放令の嵐が官界から教育界に及ぼうとする最中であった。そんな日に、宮沢は、松本からGHQ案のことを聴いた。すると、宮沢は「その『マッカーサー草案』を松本国務相から奪うように手にすると、南原繁のところに駆け込み、同草案を見せながら、「憲法研究委員会」設置を決めたのである」(185~186頁)。

 憲法研究委員会は、佐藤達夫によれば、3月の内閣草案発表後あまり続かず、短期間のものであった。また前述のように、トップの南原繁は一度も参加しなかった。

憲法研究委員、貴族院議員となる

 だが、公職追放を免れんとして一日で作った憲法研究委員会は、宮沢らにとって大成功であった。

 昭和21(1946)年2月28日、内閣に公職資格審査委員会が設置され、衆議院議員363名、貴族院議員88名が追放された。代わって、30人くらいの学者たちが勅選で貴族院議員となった。南原、宮沢、我妻といった憲法研究委員会の委員たちも、貴族院議員に勅選された。他にも、委員たちは政令制定委員となった。宮沢の場合は、貴族院議員となり政令制定委員となった。

二 新皇室典範作成過程における宮沢の主張

高尾亮一が皇室典範の起草者となる

 3月4日から5日にかけて「日本国憲法」の枠組みがGHQ案通りに決まると、「国会の制定する皇室典範」を起草する作業が必要となった。3月6日、GHQ案をほぼ踏襲した政府の憲法改正案が発表されるが、同日、宮内省の高尾亮一参事官は、皇室典範改正調査委員に任じられた。3月8日、宮内次官室で、皇室典範改正調査委員の初顔合わせが行われた。高尾は、皇室典範に関する担当幹事になった。

 3月12日には、臨時法制調査会の設置が閣議決定された。担当幹事高尾は、7月に臨時法制調査会が成立するまでの4か月間ほど、「日本国憲法」に対応する「新皇室典範」の研究を行った。

 臨時法制調査会が成立すると、調査会の第一部会が皇室関係法を担当することになった。第一部会の部属委員は25人であり、その中から選ばれた人を中心に小委員会の11人が選任された。このなかに宮沢を初めとした東大の憲法研究委員会の杉村章三郎、我妻栄、田中二郎らが入ってきた。以後、小委員会では、高尾VS東大の憲法研究委員会グループで対立論争する形で、典範案が起草されていく。

 小委員会でつくられた典範案は、最終的に、10月22日から24日にかけて第三回臨時法制調査会で決定され、10月26日、吉田内閣総理大臣に対して答申される。そのあと、11月には枢密院の審査、12月には衆議院と貴族院の審議を経て、12月24日貴族院本会議で可決成立した。そして、翌昭和22年1月16日に公布されたのである。

皇室典範という名称をやめよ――宮沢

 では、高尾VS東大の憲法研究委員会グループ(宮沢グループ)の対立とはどういうものだったか。特に宮沢グループ、なかんずく宮沢はどういう主張をしたのであろうか。
第一に、宮沢は、皇室典範という名称に異議を唱えた。宮沢は、7月18日の小委員会で『皇室典範に関して』という資料を提出した。この中で宮沢は、「新憲法」は皇室典範を法律とするのだから、典範という名称を廃して皇室法にせよと主張した。この主張について、高尾氏は、「いずれにせよ新憲法第二条、第五条に「皇室典範」と書かれているものを皇室法にせよという宮沢の主張は、民政局の注目を引くためのスタンドプレー以外の何ものでもなかった」(221頁)と評している。 

天皇の退位を認めよ――宮沢

 第二に宮沢は、『皇室典範に関して』の中で、皇族は一般国民と地位は変わらないのだから、当然皇族にも一般法令が適されるとしたうえで、天皇は国会の承認を経て退位できるとした。これも、GHQに対する「私は古い思想の持ち主ではないですよ」という宮沢のアピールであった。

 小委員会の中で天皇退位論に賛同したのは、社会党の鈴木義男、憲法研究委員会の杉村章三郎がいた。

 天皇退位論は、横田喜三郎の「天皇の戦争責任論」と連動していた。横田の戦争責任論は、共産党が使っていた論理であった。共産党の野坂参三は、天皇の譲位を説いていた。野坂は、一旦譲位したならば、それを退位にすり替え、戦争責任を認めて退位したと宣伝して、何万件もの果てしない民事訴訟を起こす計画を立てていた。。
 
女系を認めよ、女帝を認めよ――宮沢

 第三に、宮沢は、女系を認めよ、女帝を認めよという主張を行った。8月10日、総理官邸で第8回小委員会が開催されたが、宮沢は、皇位継承資格者に関して、「男系という語はいらぬ」と述べた。そして、内親王も皇位継承者として認めよと述べた。そして、女性天皇と結婚した一般国民男子は、皇族の身分を取得するという意見を述べた。宮沢が女帝容認の根拠にしたのが、「日本国憲法」14条であった。

皇族を皇室会議から排除せよ――宮沢 

  第四に宮沢は、皇室関係のことを議論する場である皇室会議から皇族を排除せよと主張した。7月25日の第二回小委員会で、そのように主張した。我妻も宮沢を支持した。

 皇室会議を明記したのは、宮沢グループが皇室典範に「皇室会議」を明記するよう要求してきたからであった。また、GHQは、旧皇室典範に規定されていた皇族会議を解体することを高尾らに命じ、皇族会議を「皇室会議」に書き換えさせたからであった。

 そこで、高尾は、次のような皇室会議案を立てて、宮内省案(昭和21年7月9日)として提出した。

(イ) 皇室会議の構成員は、内閣総理大臣、衆議院および参議院の議長、最高裁判所の裁判官二人、宮内大臣、ならびにこれと同数の青年男女皇族とする
(ロ) 裁判官と皇族の会議員の任期は六年とし半数づつを三年毎に各々裁判官と皇族のうちから互選する。
(ハ) 青年男女皇族は会議に出席して議事について意見を述べることができる
(ニ) 召集者と議長は原則として天皇とする。   247頁

           
 国側の人間が6名、皇族が6名であり、おおよそ国側と皇室側が対等な形で審議しようという案である。

 ところが、小委員会の審議では、高尾は劣勢であった。杉村は、議長以外の国会議員も入れるべしと述べた。宮沢は「国民の天皇、人民の天皇という観点から、国会が決定するのが良い」と述べ、杉村の意見に賛同した。鈴木義男も支持した。更に、田中二郎は、皇族は2、3名でよいとした。その結果、(ハ)と(ニ)が消え、皇室会議から天皇と会議メンバー以外の皇族の意向が完全に無視されることとなった。更に(イ)も修正され、皇族が6名から2名へ大減少し、国側の人間が6名から8名に増加した。その結果、皇室会議は、皇族の意向を無視して議決できる機関になってしまったのである。

最後に――学者たるもの、宮沢的生き方をすべきではない 

宮沢が女系・女性天皇論を唱えていた

 以上見てきたように、宮沢は、皇室典範作成過程において、皇室破壊につながる主張を数多くしていた。(1)皇室典範という名称をやめよ論、(2)天皇退位論、(3)女系・女性天皇を認めよ論、(4)皇室会議から皇族を排除せよ論である。幸い、高尾亮一の頑張りもあり、三点の主張は排除されたが、(4)の主張は「新皇室典範」に取り入れられ、皇室の事柄を皇族の意向を無視して決定できる仕組みがつくられてしまったわけである。とんでもない話である。

 そして、21世紀になり、(3)女系・女性天皇論が台頭し国体を破壊せんとしているのである。本当に宮沢学説は害悪だらけの代物である。

 皇室の破壊、国家の滅亡を企図した宮沢学説

 宮沢学説の害は、これにとどまらない。主なものでも、ポツダム宣言受諾による無条件降伏説、「八月革命説」、この二つの主張による「日本国憲法」有効論がある。無条件降伏説も「八月革命説」も完全な歴史偽造だし、それゆえ「日本国憲法」有効論は理論的には成り立たない代物である。これらの主張を東大をはじめとした教育界及び官界に流すことによって、偽憲法を憲法に偽造してきた。この偽憲法のため、今、日本は滅亡の危機に瀕しているのである。ちなみに、宮沢批判を強烈に展開した本書でも、「日本に無条件降伏を勧告するポツダム宣言」(182頁)と記されている。この部分は、ぜひとも修正していただきたい。

 更に、この偽憲法の解釈論としても、宮沢はとんでもない理論を立てている。9条解釈についていえば、宮沢は9条第1項で自衛戦争も禁止されているとし、戦争戦力全面放棄論の立場をとる。この解釈もまた、日本に滅亡の危機をもたらしている。

 また、注目されない点であるが、宮沢は、美濃部達吉系の学者としては珍しく、天皇は君主ではないという立場をとっていた。知られていないが、1970年代までの憲法学説では、天皇君主論の立場が美濃部達吉系の学者を中心に多数派であった(拙著『戦後教育と「日本国憲法」』1992年、日本図書センター、今は学術出版会より出版)。ここにも、宮沢の皇室破壊性が現れていたのである。

 要するに、宮沢学説は、皇室の破壊、国家の滅亡につながる思想を表明していたのである。このことに注目しても注目してもしすぎることはない。

  保身よりも、自己の学説・思想を大事にせよ

 ただ、今回の記事で私が問題にしたいのは、宮沢学説の害悪ではない。私が問題にしたいのは、宮沢学説が昭和21年2月に突然変異したことである。そして、その動機が公職追放を免れんとしたことであったことである。宮沢は、自己保身のため、自己の生活を成り立たせるために、GHQと共産党に気に入られんとして、皇室と国家を破壊していく思想を選択したのである。余りにも情けない姿である。だが、文系学問の多くでプチ宮沢が現れて、学問世界を牛耳ってきたのであろうと推測できる。退官してから、その思いが強くなっている。

 憲法は国家の基本的な姿を形成する。その憲法の解釈を決める憲法学者は、自己保身のために学説・思想を変えてはいけない。昭和30年の宮沢も、多少とも後悔の念があったからか、「祖国のゆくえというような問題をさきに心配すべきであった」と述べている。だが、結局、宮沢は後戻りせず、皇室と国家を破壊する学説を改めなかった。
 
 学者や思想家一般に言えることだが、特に憲法学者、とりわけ宮沢のように憲法学界全体に影響力を持つ学者は、「祖国のゆくえというような問題をさきに心配すべき」である。宮沢のような学者人生は決して送ってはならない。本書を読む中で、このことを強烈に思った。

 しかし、自己保身のため、自分が本当には信じていない学説・思想を展開する学者や思想家が今も多数存在する。明確に、ヘイト法が人種差別撤廃条約にも「日本国憲法」にも違反することを知りながら、日本のほとんどの学者や思想家、言論人がヘイト法反対の論陣を張らなかったことは記憶に新しい。宮沢的生き方をする者が多すぎる。

 このことは、憲法学界の大部分と歴史学界の多数にあてはまる。学者たるもの、宮沢俊義のような生き方をしてはいけない。宮沢のような生き方こそが、日本を滅ぼす本当の原因である。

 
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