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zoom RSS 再び自衛戦力と交戦権を肯定せよ―――米朝会談を見て改めて思う

<<   作成日時 : 2018/06/13 11:25   >>

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 米朝会談を見て思うこと

  昨日、6月12日、米朝会談が行われた。裏で何が合意されているか分からないが、少なくとも表で出てきていることからすれば、北朝鮮の大勝利という結果となった。

  日本は、ひたすらトランプ頼り、米国頼みで終始するばかりだった。今後も、現在のような国内体制が続く限り、同じことが繰り返されるだろう。このまま進めば、北朝鮮が韓国を吸収合併する悪夢も現実のものになっていく公算がかなり高くなったと言えよう。

  さて、今回の事態を見ていて、やはり一刻も早く、日本は自主国防体制を作らなければならいないと感じた。自主国防体制を作ったうえでなければ、本当の日米同盟は生まれないし、諸外国、特に米中、南北朝鮮、ロシアは日本の言うことを本気で受け止めることはないだろう。北朝鮮が核を保有したと言われる国家になったのも、中国が巨大化したのも、韓国がいつまでも反日をやめないのも、全ては日本が自主国防体制を築いてこなかったからである。

 再び自衛戦力と交戦権を肯定せよ

 自主国防体制への最初にして最も重要な一歩は、交戦権を肯定して、自衛戦力を肯定し、自衛隊を軍隊と位置付けることである。その方法としてはいろいろあるが、最も早く行えるのが、九条解釈の転換である。

 私は、『自衛戦力と交戦権を肯定せよ』(自由社、2017年)の中で、九条解釈の転換を当面の策として主張しているが、その部分を以下に引用しておこう。ご一読願いたい。

  ちなみに、拙著は、特に今、日本国民が読まなければならない書である。これは保守派の書ではない。私自身、自らを保守とは思って居ない。ただ、日本国の存続を願うものである。

  拙著は、左右を問わず、日本国の存続を願う日本国民ならば、必ず読んでおいたほうが良い書である。安倍改憲案に忖度した保守言論界によって排除された本だが、だからこそ、価値のある本と言えよう。あまり自画自賛は好きではないが、そういうことも言っておれないほど、今の日本は、粛々と滅亡に向かっているように見えるのである。


――――――――――

第二章 自衛戦力と交戦権を肯定せよ

 第一章では、自衛戦力を否定し、交戦権を否認していたのでは、ミニ国家にも勝利できず、大国の属国か滅亡に至るしかないことをみてきた。それゆえ、国際法上認められている自衛戦力と交戦権を肯定する国内法を確立しなければならない。
 
六 正しい第九条解釈を――自衛戦力と交戦権を肯定せよ

 その方法にはどんなものがあるだろうか。何よりもまず試みなければならないのは、第九条解釈を、自衛のための戦力と交戦権を肯定する説に転換することである。大石義雄『日本国憲法の法理』(有信堂、一九六五年)や長尾一紘『日本国憲法 全訂第4版』(世界思想社、二〇一一年)などによって説かれてきたところである。
 この説は、「日本国憲法」の解釈として十分に成立するし、むしろ正しい解釈とも言えるものである。日本が独立国として生き残りたいと思えば、すぐにも、この解釈に転換すべきである。

 自衛戦力を持つ権利と交戦権は自然権

 何よりも、もう一度言うが、自衛戦力と交戦権は、独立国家にとって、これらが無ければ他国の属国になるか滅亡を招来するものである。それゆえ、自衛戦力を持つ権利と交戦権は、国際法が認めているものであり、放棄することの許されない自然権とも言うべきものである。だからこそ、戦力を持つ権利を否定する憲法も、交戦権を否認する憲法も、諸外国には一つも存在しないのである。平和憲法としてよく引き合いに出されるコスタリカの憲法も、常備軍廃止を謳っていても、危機の時には軍隊をつくると明言しているし、戦力を持つ権利を肯定しているのである。

 文理上は、自衛戦力肯定説も否定説も成立する

 また、「日本国憲法」成立過程の研究からも、自衛戦力肯定説は唱えられている。いわゆる芦田修正を根拠にしたものである。昭和二十一(一九四六)年六月、帝国憲法改正の政府案が帝国議会に上程された。政府提出案第九条はつぎのようなものだった。

第一項 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
第二項 陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。

 
この政府案のままであれば、自衛のためであろうと戦力は持てないし、交戦権は認められないことになる。少なくとも文理上から言えば、大石説や長尾説が登場する余地は全く無かったと言える。しかし、右の政府案は、七月から八月にかけて開かれた衆議院憲法改正特別委員会内小委員会で審議され、八月一日、次のように修正され、「日本国憲法」成文となっていく。

第一項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


 傍線部が修正点であり、いわゆる芦田修正である。芦田修正の名称は、この衆議院憲法改正特別員会とその内部に置かれた小委員会の委員長を務めた芦田均(後に内閣総理大臣となる)にちなんで付けられたものである。

この芦田修正によって、「前項の目的」をどう捉えるかで解釈問題が生ずることになった。すなわち文理上から言えば、第一項に記された「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」を指すと捉える解釈も出てくるし、第一項全体を指すと捉える解釈も出てくることになる。前者の説であれば、特に第九条の趣旨は変わらない。これに対して、第一項全体を指していると解すれば、自衛戦力肯定論と自衛のための交戦権行使肯定論が登場する可能性が与えられるわけである。

  筆者なりに考察するならば、自衛戦力肯定説と否定説の成立可能性は、文理上、同等である。だが、自衛のためであっても、交戦権肯定論は文理上の困難さがつきまとう。第二項は、二つの文に分かれており、「前項の目的を達するため」が後文の「国の交戦権は、これを認めない」に掛かっているとは、すんなり読めないからである。

  だからこそ、文言に忠実な解釈を行った佐々木惣一は、「前項の目的を達するため」を前文の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」にだけ掛かるものとして読み、自衛戦力を肯定しながら交戦権を否定したのである(佐々木惣一『改訂日本国憲法論』有斐閣、一九五四年)。

ケーディスは自衛戦力肯定説を承認していた

文理解釈の問題はともかくとして、第九条成立史について話を続けよう。議事録を読むと、小委員会は、「前項の目的」は「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の部分を指すと捉えていた。この修正案の提案者である芦田は、八月一日の委員会で、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という目的を第一項でも第二項でも書きたいところだが、重複するから「前項の目的を達するため」と書いたのだと発言している(衆議院事務局編『衆議院帝国憲法改正案委員小委員会速記録』衆栄会発行、一九九五年)。

 ところが、芦田は、小委員会開催中に何度もGHQ民政局のケーディスと会って、芦田修正について承認を受けている。第九条の起草者であるケーディスは、第九条の問題について、どのように考えていたのであろうか。一九八四年八月二十八日、ケーディスは、占領史研究者竹前栄治のインタビューを受けているが、その記録を基に見ていこう(竹前栄治『日本占領――GHQ高官の証言』中央公論社、一九八八年)。

 当時のインタビューによれば、ケーディスは、「憲法第九条は個人や国家の自衛権、そのための軍隊を排除するものではなかったのです」と発言している。それゆえ、ケーディスはいわゆる芦田修正に対して抵抗感は全くなく、すぐに受け入れたという。ケーディスは、次のように発言している。

  私があっさり受け入れてしまったので、むしろ彼の方がたいへん驚きました。あの日、芦田さんは外務省からお供を連れて、私一人しかいなかったオフィスにやって来ました。彼は「憲法第九条二項のトップに“前項の目的を達するため”という文言を挿入しても、GHQの方針と矛盾しませんか」と尋ねたので、私は「異存はありません」と答えました。……彼は喜んでたいへん感謝しました。

  このケーディス証言によれば、芦田は、「前項の目的を達するため」が自衛戦力肯定説に道を開く可能性について意識していたようである。また、GHQのケーディスさえも、自衛戦力肯定説を少なくとも排除しない立場であったことを確認しておきたい。いや、先述の「憲法第九条は個人や国家の自衛権、そのための軍隊を排除するものではなかったのです」という発言を重視するならば、むしろ自衛戦力肯定説に立っていたと捉えるべきであろう。

 極東委員会も自衛戦力肯定説に立っていた
 
 さらに言えば、連合国による日本統治に関する最高機関である極東委員会も、第九条第二項が自衛戦力を肯定するものであると解釈していた。前述のように八月一日の衆議院の小委員会で「前項の目的を達するため」が第九条第二項に挿入された後、そのまま八月二十四日の衆議院本会議で可決されている。

 この第九条修正によって、自衛戦力肯定説が生まれることに気付いた極東委員会は、九月二十一日、現役軍人が日本政治に於いて力を持たないようにするために、大臣が文民であるべきことの規定の新設を日本側に要求する決定を行う。委員会におけるカナダ代表のパターソンの発言を引いておこう。

 この憲法が通過したのち、公的に承認された陸軍大将や海軍大将が出現するであろうことは、まったく考えられうることである。もしすべての大臣がシビリアンでなければならないという条項が容れられれば、彼らが閣僚の地位に指名される可能性についての疑念はなんらなくなるであろう。……この点について委員の間に意見の相違があるとは思えない。(西修『日本国憲法はこうして生まれた』中央公論社、二〇〇〇年)。

 この極東委員会の要求に基づき、「日本国憲法」第六十六条第二項の文民条項が生まれたのであるが、その前提として、嫌々であろうが、自衛戦力肯定説を承認する極東委員会の立場があったことを確認しておきたい。この極東委員会の動きを根拠に、西修は自衛戦力肯定説を展開している(西修『日本国憲法の誕生を検証する』学陽書房、一九八六年、同『ここがヘンだよ!日本国憲法』アスキー、二〇〇一年、同「私の憲法第九条改正案」『改革者』二〇一七年八月号)。

 要するに、第九条の起草者であるケーディスも、連合国側の最高機関である極東委員会も、全てが自衛戦力肯定説を否定していなかった。最近三〇年間ほどの研究の進展により、このことが分かったことを強調しておきたい。なぜ、日本政府も、学説も、自衛戦力肯定説に転換しないのか、本当に解せない事である。

 交戦権とは何か分からずに規定していたケーディス
 
 以上、国際法及び普遍的法理、文理上、第九条成立過程、これら三つの観点から、自衛戦力肯定説こそが正しいことを説いてきた。

 では、第九条の解釈として、自衛目的であれ、交戦権を肯定することは出来るのであろうか。筆者は、確かに文理上から言えば困難があるが、成立過程と国際法及び普遍的法理からすれば、特に後者からすれば、自衛戦力の場合以上に肯定しなければならないものだと考える。

 まず話の流れから第九条成立過程を振り返ってみよう。今日に於いても、交戦権とは何か、きちんと確定していないし、よく分からない所がある。当時はもっと分からなかったようである。ケーディスは、一九八一年に行われた古森義久によるインタビューの中で、「最後の『交戦権』ですが、これは実のところ日本側がその削除を提案するよう、私はずっと望んでいたのです。なぜなら『交戦権』というのが一体、なにを意味するのか私にはわからなかったからです。いまもってよく分かりません」と述べている(古森義久『憲法が日本を亡ぼす』海竜社、二〇一二年)。

 自衛戦力と交戦権を共に肯定する解釈を

 このように、成立経緯から言えば、起草者自身が意味も分からず規定したような言葉に振り回される必要はないと言える。ケーディス自身が「日本側がその削除を提案するよう、私はずっと望んでいた」と言っているのだから、第九条第二項後文は存在しないものとして解釈してもよいと思われる。言い換えれば、文理解釈の困難さに囚われることはないということである。

 それゆえ、交戦権の問題については、基本的に、国際法及び普遍的な国家の在り方から考えればよいのではないか。そもそも、自衛戦力問題は直接には国内法の問題かもしれないが、交戦権の問題は直接には国際法の問題だからである。いや、純粋に国際法の問題だと言えるかもしれない。

 また、第一章で展開したように、国家が独立を維持するには、自衛戦力を保持する権利も交戦権も共に必要である。「日本国憲法」は独立国家の最高法なのだから、当然に、自衛戦力だけではなく、交戦権も肯定しなければならないと言えよう。交戦権を行使しようにも軍隊が無ければその多くは行使できないし、軍隊が存在しても交戦権を行使できなければ機能不全に陥るからである。何しろ、世界有数の「軍隊」(自衛隊)を持ったところで、交戦権を持てなければ、ミニ国家にも勝てないことは、第一章で展開した通りである。どうも、この点が、日本の憲法学者や国際法学者、政治家、官僚にはほとんど理解できていないようである。

 なお、国際法と文理解釈をすり合わせようと考えるならば、無理にでも、「前項の目的を達するため」が第二項後文の「国の交戦権は、これを認めない。」に掛かっていると解釈した方がよい。とすれば、自衛戦争を行う場合には交戦権は認められるが侵略戦争を行う場合には交戦権は認められないという解釈となろう。

 しかし、国際法的には、戦争の始まりが自衛のためであろうと侵略のためであろうと、一旦戦争が始まってしまえば、自衛権を発動する側にも侵略者側にも、交戦権は平等に認められる。従って、上記のような限定を置かずに交戦権を認める方が合理的であり、国際法に適っていることになろう。もちろん、国連の機能が有効に発揮されれば、自衛側と侵略側の交戦権は平等に認められるわけではない。だが、国連が十分に機能を発揮する場面は極めて稀である。それゆえ、限定を置かずに交戦権を認める解釈の方が優れているとは言えよう。

 ともあれ、「自衛のための」という限定付きであれ、限定なしであれ、交戦権を認める第九条解釈が求められていると言えよう。一刻も早く、第九条第二項の正しい解釈を確立し、自衛戦力と交戦権を肯定しなければならない。今、筆者が訴えたいことは、この点に尽きているとも言える。

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