具体的文章表現を変えてきた育鵬社歴史教科書――盗作を自ら認めた?!――

 時間の隙間ができたので、本当は5月ぐらいに掲載すべきであったが暇がなく延び延びになってきた、育鵬社歴史教科書盗作問題に関する記事を記すことにする。
 本年5月、育鵬社は、平成28~31年度用の『新しい日本の歴史』を発行した。これを現行版教科書と比較してみると、事実上、育鵬社が自ら著作権侵害を認めた箇所が多数あることがわかった。

 育鵬社と東京地裁の出鱈目論理

 既報のように、昨年12月、東京地裁は育鵬社側勝訴の判決を下した。全面的に育鵬社の主張を受け入れた判決であった。育鵬社側及び判決の主要な論理は二点に渡る。一は、歴史教科書というものは誰が書いても同じような事項を選択せざるを得ないし、同じ事項を選択すれば配列も似たようなものになるから、【事項の選択・配列】の面では個性・創作性がほとんど現れないとするものである。そして、扶桑社平成17年版の場合も【事項の選択・配列】の面で個性・創作性は現れていないとするものである。

 二は、同じような【事項の選択・配列】を行なえば、具体的文章表現の幅も狭くなる結果、文章が類似したものになるのは当たり前であるとするものである。

 同じ事項を選択しても違う文章はいかようにも書ける 

  一も二も全く成り立たない出鱈目な論理である。当ブログでは、一の論理に対する批判を行なってきたが、今回は二の論理に対する批判を行っておこう。二の論理に対する反証は、今回、育鵬社自身が挙げることになった。育鵬社は一審で、同じような事項を選択したのだから配列も同じようになり、更に具体的文章も同じようになるのは当たり前ではないか、それゆえ類似しているけれども著作権侵害ではないと述べていた。しかし、平成27年版の育鵬社は、同じ【事項の選択】をしながら、配列を変え全く異なる新しい文章表現を行ったり、配列は同一だが全く新しい文章表現を行ったりした。その具体例を何件か挙げておこうと思う。育鵬社平成23年版の傍線は扶桑社と類似した文章表現を示すものであり、育鵬社平成27年版の赤字は23年版から変化した文章表現を示すものである。


一、記紀・風土記

○育鵬社平成23年版
単元12「天平文化」下、
「神話と歴史書の完成」の小見出し下、
 律令政治のしくみが整い、国際交流もさかんになるなか、わが国にも国家としての自覚が生まれ、国のおこりや歴史をまとめようとする動きがおこりました。まず、『古事記』がつくられ、ついで朝廷の事業として『日本書紀』が編さんされました。『古事記』は民族の神話と歴史として伝えられたものを記録した、文学的な価値の高い物語であり、『日本書紀』は国家の正史として、歴代の天皇とその歴史が年代順に記されたものです
  さらに朝廷は、国司に命じて、地方ごとに伝説や地理、産物などを調べさせ、『風土記』を編集させました。 (44頁)

○育鵬社平成27年版
単元12「天平文化」下、
「神話と歴史書の完成」の小見出し下、
 律令国家としての基礎ができあがるにつれ、わが国の歴史が書物としてまとめられるようになりました。神々の物語や代々の天皇の業績を記した『古事記』や、国の正史として代々の天皇やその業績を記した『日本書紀』がそれにあたります。
 また、朝廷の命令によって、各地の地理や産物、伝説などを記した『風土記』もつくられました。
 (48頁)

 
二、国分寺建立

○育鵬社平成23年版
単元12「天平文化」下、「奈良の都に咲く仏教文化」の小見出し下、
聖武天皇は、国ごとに国分寺と国分尼寺を建て、日本のすみずみに仏教をゆきわたらせることで、政治や社会の不安をしずめ、国家に平安をもたらそうとしました。また、都には全国の国分寺の中心として東大寺を建立し、金銅の巨大な仏像(大仏)をつくりました。  (45頁)

○育鵬社平成27年版
単元12「天平文化」下、
「奈良の都に咲く仏教文化」の小見出し下
 聖武天皇は、仏教をあつく信仰し、仏の力を広めることで社会の不安をなくし、国を平安に導こうとしました。そこで聖武天皇は、国ごとに国分寺と国分尼寺を建て、都には東大寺を建てました。東大寺には、唐やインドにもない巨大な金銅の仏像(大仏)がつくられました。   (48~49頁)


三、南蛮貿易とキリシタン大名

○育鵬社平成23年版
単元25「ヨーロッパ人の来航」下、
「南蛮貿易とキリシタン大名」の小見出し下、
 16世紀末、ポルトガル人に続き、スペイン人も日本にやって来るようになりました。彼らは南蛮人とよばれ、平戸(長崎県)や長崎などに来航し、貿易が始まりました。南蛮人は、中国産の生糸や絹織物、ヨーロッパの火薬、鉄砲、ガラス製品、毛織物、時計などをもたらしました。一方、鉱山開発により世界有数の銀の産出国になっていた日本は銀を輸出しました。これを南蛮貿易といいいます
  九州各地の大名は、貿易による利益のため領内での宣教師の活動を許可しました。しかし、大名の中には、キリスト教を保護するだけでなく、自らキリスト教の信者になる者もあらわれました(キリシタン大名)。
  1582(天正10)年、九州の大友宗麟ら3人のキリシタン大名は、4人の少年をスペイン国王とローマ教皇のもとへ派遣しました(天正遣欧使節)。少年たちは3年がかりでローマにつき、大歓迎を受けました。 (93頁)

○育鵬社平成27年版
単元26「ヨーロッパ人の来航」下、
「南蛮貿易とキリシタン大名」の小見出し下、
 このころわが国にやってきたポルトガル人やスペイン人は、南蛮人とよばれました。やがて、彼らとのあいだに貿易が始まり、長崎や平戸には南蛮船が寄港するようになりました。
 各地の大名は、貿易の利益を得るためキリスト教を保護し、領内での宣教師の活動を許可しました。宣教師は貿易船で来港し、布教の許可は貿易の拡大と結びついていました。大名にとって、ヨーロッパ人がもたらす火薬や鉄砲、ガラス製品、中国産の生糸や絹織物は大きな魅力でした。また、わが国からはおもに銀が輸出されました。このような取引を南蛮貿易といいます。
 大名の中にも信者になるものがあらわれ、彼らはキリシタン大名とよばれました。
 1582(天正10)年、豊後(大分県)の大友宗麟らキリシタン大名は、ローマ教皇のもとへ少年を派遣しました
(天正遣欧少年使節)。
 (107頁)

四、秀吉の朝鮮出兵

○育鵬社平成23年版
単元27「豊臣秀吉の政治と外交」下、
「秀吉の対外政策と朝鮮出兵」の小見出し下、
 また、秀吉は海外進出をこころざし、フィリピンや台湾などに服属を求める手紙を送りました。さらに明への出兵を計画し、朝鮮に服属と明への出兵の道案内を求めました。
 全国統一をなしとげ、意気さかんだった秀吉は、1592(天正20)年、明への出兵の案内を断った朝鮮に、15万あまりの大軍を送りました。秀吉軍は、首都漢城(現在のソウル)を落とすなど優勢でしたが、李舜臣が率いる朝鮮水軍の活躍や民衆の抵抗、明の援軍などで戦いは不利となり、明との講和をはかって兵を引きました(文禄の役)。しかし、明との交渉はまとまらず、1597(慶長2)年、秀吉はふたたび朝鮮に14万人あまりの大軍を送りました。ところが、苦戦を強いられたうえ、翌年には秀吉が病死したため撤兵しました(慶長の役)。朝鮮出兵で、朝鮮の国土や人々の生活はいちじるしく荒廃しました。また、この失敗は、豊臣政権がくずれる原因の一つとなりました。(97頁)。

○育鵬社平成27年版
単元28「豊臣秀吉の政治と外交」下
「対外政策と朝鮮出兵」の小見出し下、
 全国を統一した秀吉は、国力のおとろえつつあった明にかわり、日本を東アジアの中心とする新しい国際秩序をつくろうとしました。フィリピンや台湾に服属を求めるとともに、明に出兵しようとしました。
 1592(天正20)年、秀吉は明への案内役を断った朝鮮に15万あまりの大軍を送りました。軍勢は、一時は首都・漢城(現在のソウル)を占領し朝鮮北部にまで進撃しました。しかし、李舜臣の率いる朝鮮水軍に敗れ、明の援軍も参戦して戦局が不利になると
、明との講和をはかり、兵の一部を引きあげました(文禄の役)。
 1597(慶長2)年、明との講和の話し合いがまとまらず、秀吉軍はふたたび出兵しました。しかし、前回以上の苦戦となり、翌年には秀吉も病死したため、全軍が引きあげました(慶長の役)。
 この戦いは、朝鮮の国土と人々に大きな被害を残すとともに、出兵した日本側の大名にも重い負担となりました。また、出兵の失敗は、豊臣政権がくずれる原因の一つとなりました。
(111頁)

五、ベトナム戦争

○育鵬社平成23年版
単元79「冷戦と日本」下、
冷戦の進行」の小見出し下、
 1965年には、インドシナ半島の共産化をくい止めるため、アメリカは南ベトナムを援助する軍を送り、中国、ソ連、北ベトナムが支援する南ベトナムの反政府勢力や北ベトナム軍と戦った(ベトナム戦争)。しかし、長引く戦争に、米国の世論はこの戦争への介入反対へと傾き、1973年にアメリカ軍は撤退しました。1975年、北ベトナムは南部に侵攻し、南ベトナムを併合しました。 (236~237頁)

○育鵬社平成27年版
単元80「冷戦と日本」下、
「冷戦の進行」の小見出し下、
 また、フランスの植民地だったベトナムでは、独立戦争を戦った共産主義国家の北ベトナムと、アメリカの援助によって成立した南ベトナムが対立しました。北ベトナムの支援を受けた南ベトナム民族解放戦線は、南ベトナム政府に対するゲリラ戦を展開し、共産主義勢力の拡大を恐れたアメリカは、1965年、軍を送って北ベトナムと解放戦線を攻撃しました(ベトナム戦争)。しかし、ソ連や中国の援助を受けた北ベトナム軍に苦戦して戦争は長期化し、世界各地で反戦運動も高まりました。1973年、米軍は撤退し、その2年後には北ベトナム軍が南進して南ベトナムを併合しました。 (260~261頁)


 以上のように、同じ事項を選択したとしても、そして同じ配列をしたとしても、更には同じ思想の人間が書いたとしても、自分の頭で文章を工夫すれば、いかようにも別の新しい表現は可能である。だからこそ、我々は、盗作だと主張してきたのである。今回、育鵬社は、著作権侵害を指摘された、記紀・風土記等多くの箇所で、内容は変えずに文章を大きく変えてきた。自ら我々の主張を認め、盗作であることを認めたと言えよう。 


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