育鵬社歴史教科書執筆者の陳述--他社の教科書記述を参考に文章を紡いだ 

  4 回前の記事で、2014/12/20 12:48「育鵬社歴史教科書は有名人は誰も執筆していない」を掲載した。この記事の中で、被告側主張によれば、育鵬社歴史教科書を実際に執筆したのは、伊藤隆氏や八木秀次氏などではなく、中学校教員の○○氏であると記した。今回は、○○氏の一審における陳述書を掲載したい。掲載に当たっては、○○氏の名前や生年月日などの個人情報は削除した。赤字で付した小見出しや下線は、掲載に当たって私が付したものである。まずは、一読されたい。


              ―――――――――――――   
 


                                                             乙第 42号証

                                                         平成 25 年 12 月 8 日

                    陳 述 書



                 ――――――――――――――――――――

                ―――――――――――

                  ――――――――――生

                                     ○○○○ 印


一、 原稿執筆に至るまで

(1)扶桑社との関わり


    私 は現在 、 上 記 の 中学 校 で 社 会 科 を 教 え て い ま す 。
   私 が 扶 桑 社 と か か わ り を 持 つ よ う に な っ た の は 、 平 成 11 年 11 月 、 同 社 に歴 史 教 科 書 ( 初 版 ) の ゲ ラ 校 正 を 依 頼 さ れ て か ら の こ と で す 。 前 年 12 月 に 「 新 し い 歴 史 教 科 書 を つ く る 会 ( 以 後 「 つ く る 会 」 と 表 記 ) 」 に入 会 し 、 愛 媛 県 支 部 立 ち 上 げ に 奔 走 し た り 、 産 経 新 聞 の依 頼 で 「 教 科 書 の通 信 簿 」 を 執 筆 し て い た り し た た め 、 社 会 科 担 当の現 場 教 員 と し て 指 名 さ れ た も の と 思 わ れま す 。 ま た 、 執 筆 に つ い て は 公 民 教 科 書 ( 初 版 ) に 2 ペ - ジ の 課 題 学 習 を 掲 載 し て い た だ い た の が 嚆矢 と 記 憶 し ま す 。

   翌 12 年 7 月 に 初 め て 扶 桑 社 を 訪 問 し 、 公 民 の 指 導 書 編 集 会 議 に 出席 、 以 後 約1 年 半 に わ た り 同書 の 執 筆 に あ た り ま し た 。 14 年 か ら は 新 た に公 民 教 科 書 ( 改 訂 版 ) の 作 成に 携 わ る こ と と な り 、 政 治 分 野 を 中心 と し て 16 年 2 月 ま で 執 筆 を 続 け ま し た 。 ま た 、 17 年 度 は 同 書 指 導 書 の 執 筆 も 行 い ま し た 。

(2)「つくる会」との関わり

 こ の 問 、 私 は 「 つ く る 会 」 の 愛 媛 県 支 部 役 員 、 ま た 全 国評 議 員 と し て 活 動 を 続 け 、 東 京 で の総 会 や 評 議 員 会 に も 何 度 か 出 席 し ま し た 。 原 告 で あ る 藤 岡信 勝 氏 の著 書 や 講 演 か ら は 多 く を 学 び 、 ま た 県 支 部 も 教 科 書 採 択 活 動 に お い て 同 氏 に は ひ と か た な ら ぬ 尽 力 を い た だ い た 経 緯 も あ り ま す 。 そ れ だ け に今 回 の 訴 訟 は痛 恨 の極 み と 言 わ ざ る を え ま せ ん 。

(3)「つくる会」の「狭量さ」に失望した

    「 つ く る 会 」 の あ い つ ぐ 内 紛 と そ の 激 化 の た め 、 18 年 7 月 に 愛 媛 県 支 部は 事 実 上 の 解 散 を 迎 え ま し た 。私 は 保 守 系 メ- リ ン グ リ ス ト を 通 し て 「 つ く る 会 J と 日本 教 育 再 生機 構 ( 理 事 長 ・ 八 木 秀 次 氏 ) が 歩 み 寄 る 必 要 性を く り 返 し 訴 え ま し た が 、 「 つ く る 会 J の 一 部 会 員 か ら 猛 烈 な 非 難 と 中傷 を 浴 び る 結 果 と な り ま し た 。 そ の あ ま り に硬 直 し た 原 理 主 義 的 体 質 、 ま た 訴 状 に も あ る 「 内容 、 形 式 及 び 理 念 の い ず れ の 面 か ら 見 て も 、 模 倣 と は認め ら れ な い も の と す る よ う 」 と い う 教 科 書 の 偏 向被 害 に 直 面 し て い る 肝 心 の 生 徒 を 一 顧 だ に し な い 「 つ く る 会 」 の 狭 量さ に深 い 失 望 を 覚 え ま し た 。 藤 岡氏 か ら 「 つ く る 会 」 サ イ ド の 編 集 委 員 会へ の お誘 い も あ り ま し た が 、 以 上 の よ う な 理 由で お 断 り し 、 新 た に設 立 さ れ た 育鵬 社 の 教 科 書 事 業 に全 面 協 力 さ せ て い た だ く こ と に な り ま し た 。

(4)育鵬社へ現場教員が執筆することを提案

   19 年 11 月 に育 鵬 社 の 「 夢 の 教 科 書 プ ロ ジ ェ ク ト 」 ( 編 集 会 議 の 別 称 ) に 初 め て 参 加 し 、 歴 史 分 野 につ い て 実 験 的な 原 稿 ( 本 文 以 外 ) を 何 本 か 執筆 し ま し た 。

   今 ま で の扶 桑 社 版 教 科 書 を 現 場 教 員 の 眼 で 見 た 場 合 、 歴 史 観 や 信 条 は画 期 的 で あ る も の の 、 中学 生 が 使 う に は あ ま り に 高度 で 難 解 な 内容 が 多 い こ と 、 ま た 、 そ の 筆 致 も 様 々 な 著 者 に よ る “パッ チ ワーク 状 態 ” に な っ て い る こ と に 問題 が あ る と 思われ ま し た 。 そ の た め 20 年 4 月 の 編 集 会 議 で 、ベ - ス の 執 筆 を 従 来 の よ う に 学 者 サ イ ド で は な く 現 場 教 員 、 し か も な る べ く 少 な い 人 数 で 行 う こ と 、 さ ら に本 文 の 記 述 は 自分た ち の 主 張 を 控 え め に し 、 訴 え る べ き 点 は コ ラ ム や 側 注 、 課 題 学 習 等 に色 濃 く 反 映さ せ る こ と 等 を 提 案 し まし た 。 提 案 は 認 め ら れ ま し た が 、 そ の執 筆 自体 を 私 が 行 う と い う 想 定 外 の 事 態と な り 、 以 後 手 探 り 状 態 で 執 筆 に没 頭 す る こ と と な り ま し た 。

二、原稿執筆の仕方

(1)執筆→編集会議→手直し


   翌 21 年 12 月 ま で の 2 年 近 く は 、 一 定 量 の 執 筆 を し て は メ -ル で 送 る と と も に 、 編 集 会 議 で 出 た 意 見 を も と に 手 直 し し た 原 稿 を 再 送 付 す る と い う 作 業 の く り 返 し と な り ま し た 。 そ の 間 17 回 上 京 し 、 育 鵬 社 に こ も っ て3日間執 筆 に追 わ れ る と い う 強行 日程 も 2 度 経 験 し ま し た 。

(2)単元本文70時間分を執筆した

   執 筆 分 は 文 化 の 領 域 の 一 部 や 江 戸 時代 の 大 半 、 ど う し て も 思 い つ か な い 部分 を 除 き 、 本 文 約 70 時 間 分 及 び扉 、 コ ラ ム ( ミ ニ コ ラ ム 含 む )、 課 題 学 習約 50 本 で し た 。 ま た 、 本 文 は 育 鵬 社 か ら 台 割 り が 示 さ れ て い た た め 、 そ れ に基 づ い て 執 筆 し ま し た 。

(3)各社本文を参考に文章を紡いだ

   執 筆 方 法 と し て は 、 ま ず 各 社 教 科 書 の 本 文 記 述 に 目を 通 し 、 大 ま か な 内 容 と 重 要 語 句 、 分 量 を 把 握 し た 後 、 一か ら 文 章 を 「 一 太 郎 J の ソ フ ト を 用 い て 入 力 す る と い う 方 法 を と り ま し た 。 執 筆 に あ た っ て は 、 こ れ ま で 長 年 自分が 授 業 で お こ な っ て き た 展 開方 法 や自作 の 予 習 プ リ ン ト、 板 書 図 な ど を ベ- ス と し て 、 そ の上 で 他 社 の 教 科 書 記 述 を 参 考 に し な が ら 、 教 科 書 に ふ さ わ し い も の と な る よ う 文 章 を 紡 い で い き ま し た 。

(4)データはもらわなかった

   そ の 問 、 育 鵬 社 側 か ら は扶 桑 社 版 の デ-タ 等 、 執 筆の 補 助 と な る 材 料 の 提 供 は一 切 あ り ま せ ん で し た ( そ の よ う な も の が あ っ た と す れ ば私 の 労 苦 は大 幅に 軽 減さ れ 、 予 定 よ り は る か に短 時 間 で 執 筆 が 完 了 し た で し ょ う。 ま た 、 現 在 に 至 る ま で 私 の パ ソ コ ン に は ワード も エ ク セ ル も イ ン ス ト-ル さ れ て お ら ず 、 常 に一太 郎 で 送 付 し て い た こ と を 附記 し ま す ) 。

(5)それゆえ、データは流用していない

  従っ て 、 訴 状 に あ る よ う な 「 被 告 扶 桑 社 が 被 侵 害 書籍 の 本 文 デ - タ を 保 有 し て い た も の で あ る こ と を 奇 貨 と し て 被 侵 害 書 籍の 本 文 記 述 を 流 用 す る こ と を 企 て た 」 と い う 指 弾 は ま っ た く の 事 実 無 根と 言 わ ざ る を え ま せ ん 。

(6)大部分は歴史的事実又はそれに対する一般的解釈に過ぎぬ

 実 際 に 台 割 り に 従っ て 執 筆 し た 場 合 、 一授 業 時 間 ( 原 則 と し て 見 聞 き 2 ペ ジ ) に収 ま る 文 章 量 は ほ ぼ一定 に 限 ら れ ま す し 、 そ こ に盛 り 込 む記 述 も 学 習 指 導 要 領 を は じ め 、 重 要 語 句 の 挿 入 や 受 験 対 策の た め に 多 く の 内容 的 制 約 を 受 け ま す 。 大 部 分 は歴 史 的事 実 そ の も の か 歴 史 的 事 実 に対 す る 常識 的 な 解 釈 ・ 認 識 を 記 載 し た 内容 と な ら ざ る を え ず 、 そ れ は ま た 前 述 し た「 本 文 記 述 は 抑 え め 」 と い う 育 鵬 社 の 編 集 方 針 に も 合 致 す る も の で し た 。

(7)検定・採択があるから教科書に大きな違いはない

 実 際 、 執 筆 の過 程 で 心 が け て い た こ と は 、 歴 史 と 伝 統 を 尊 重 す る 立場 に立 ち な が ら も 、 教 科 書 と し て ス タ ン ダード な 内容 で あ る こ と 、 偏 り の な い記 述 を す る こ と で し た 。 各 社 の 本 文 の 記 述 内容 に結果 的に 大 き な 違 い が 見 ら れ な い の は 、 そ も そ も そ れ が 一 般 書 籍 で は な く 、 検 定 ・採 択 を 前 提 と し た 教 科 書 で あ る こ と に由来 し て い る と 思 われ ま す。

(8)歴史認識が似ているから記述が類似したに過ぎぬ

 ま た 、 当然 の こ と な が ら 扶 桑 社 版 と 育 鵬 社 版 は そ の 歴 史 認 識 に お い て き わ め て 似 通 っ た 思 想 性 を 帯 び て お り 、 と も に 「 保 守 」 で く く ら れ る 陣営 に 属 し て い ま す 。 そ れ ゆ え 私 も か つ て は 扶 桑 社 版 の 執 筆 や啓 発 活 動 に肩 入 れ し た わ け で す し 、 先 に述 べ た よ う に私 の 歴 史 認 識 を 形 成す る に あ た っ て は「 つ く る 会 J に属 し て い る ( い た ) 諸 先 生 の 影 響 を 長期 間 に わ た り 強く 受 け て い ま す 。 執筆 に あ た り 、 そ の よ う な 方 々 の 著 書 の 内容 が 念 頭 に あ っ た こ と は 当然 で す し 、 記 述 に類 似 点 が あ る と い う な ら そ の よ う な 思 想 の 近 さ が 内容 に も 反 映 し て い る 点 が あ る も の と 思 わ れ ま す 。 無論 、 一 度 私 の 中で咀嚼し 血 肉化 さ れ た 歴 史 認 識に 基 づ く 文 章 は 、 そ の 素材が だ れ の も の で あ れ 私 自身 の 作 品 で あ る こ と は論 を 待 ち ま せ ん 。

(9)編集会議や検定の結果、私の原稿と違うところもある

 な お 、 原 稿 は そ の 後 、 編 集 会 議メ ン バ ーの 意 見 を 取 り 入 れ た り、 文 科 省 の 検 定 に対 応 する た め の 加 筆 ・ 修 正 を 受 け た た め、 結 果 的 に私 が 執 筆 し た も の と は異 な る 文 章と な っ た も の も 少 な く あ り ま せ ん 。

(10)原告が指摘した箇所は全て、ありふれた歴史記述の表現

   最 後 に も う 一 度 申 し 上 げ ま す が 、 育 鵬 社 の歴 史 教 科 書 は 他 社 本 と 同様 、 一 般 的 な 史 実 や 解 釈 を 一 般 的 な 表 現 を 用 い て 記 述 し た も の で す原 告 が 著 作権 の 侵 害 を 主 張 す る 個 所 につ い て も 、 すべ て あ り ふれ た 歴 史 記 述 の 表 現 にす ぎ ま せ ん。 も し も 原 告 の 主 張 す る 著 作 権 侵 害 の 認定 を 一 部 分 で も 受 け る よ う な こ と に な れ ば 、 以後 、 ど の よ う な 歴 史 教 科 書 も 執 筆 で き な く な る の で は な い か と 危 倶 し て お り ま す 。 私 は 現 場 教 員 と し て 、 教 育 界 に そ の よ う な 大 き な 混 乱 を 招く 事 態は 避 け ね ば な ら な い と 考 え ま す 。

    以 上

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「つくる会」批判の真意は文章を流用させよということか 

上に掲げた○○氏の陳述に対する論評をしていきたい。まず、一の《(3)「つくる会」の狭量さに失望した》の箇所についてみていきたい。氏は、「訴状にもある「内容、形式及び理念のいずれの面から見ても、模倣とは認められないものとするよう」という言葉を捉えて、「つくる会」は狭量だという。しかし、この言葉は、平成19年2月に扶桑社から一方的に切られた「つくる会」が、同年6月、原告ら「つくる会」側著者の文章を使わないように要求する文書の中で使ったものである。狭量さを発揮して「つくる会」を切ったのは扶桑社である。そのことを棚上げにして、「つくる会」を狭量と非難するとは、何とも驚かされる。

   というよりも、氏の真意は、「つくる会」側著者の文章を流用したいのに、「つくる会」が使わせないというのはけしからんということであろうか。実際に、「つくる会」側著者の文章を流用した○○氏の行動と併せ考えれば、そういうことになろう。

   ○○氏には大きな責任がある

    一の(4)に目を移せば、氏は、「ベ-スの執筆を従来のように学者サイドではなく現場教員、しかもなるべく少ない人数で行うこと」を平成20年4月の編集会議で提案したという。このことが本当ならば、育鵬社盗作問題における氏の責任は極めて重いというべきだろう。

 手抜きで作った育鵬社歴史教科書

 だが、この部分で私が気になったのは、平成20(2008)年4月という検定申請まで2年しかない切羽詰まった時期からようやく原稿を執筆し出したということだ。次の二の(1)(2)の部分まで読むと、基本的に○○氏が一人で21年12月までの1年9か月で執筆したということである。これは、極めて手抜きの作業というしかない。もちろん、扶桑社版を新学習指導要領に合わせて手直しするという程度の作業ならば、十分できるだろう。だが、育鵬社側は、82単元存在する扶桑社版のうち7単元にしか著作権を持っていない。したがって、75単元分を一から構想し起稿する必要があったのだ。しかも、二の(2)を見ると、氏は、単元本文70時間分以外にコラムや課題学習など50本を仕上げている。21か月の間に、計120本原稿を作成する作業を行ったことになる。しかも、何度も修正しているのだ。この作業は、一人で1年9か月で出来るとは私には到底思えない。氏は、3日間ずつ2度缶詰め状態で執筆したことを誇っているが、その程度でこなせる分量ではない。

  私は、19年7月から21年12月まで公民教科書の執筆作業を2年半行った。公民教科書は基本的に5人で分担して単元本文を作成したが、それでも22年4月の検定申請に間に合わせるのにギリギリであった。全体構想を立てたとはいえ、私が執筆したのは、単元本文とコラムを合わせて17本に過ぎない。それでも、2年半のうち1年半は完全に公民教科書作成作業に忙殺された。

  どう考えても、公民教科書執筆の方が、歴史教科書執筆よりも時間がかからない。また、我々の多くは大学教員であったから、中学校教員である○○氏よりも教科書執筆に時間を割ける立場であった。もちろん、社会科を教えてきたという立場からすれば、我々よりも執筆時間が短くて済むのかもしれないが、単純計算で私が1年ないし2年で行った7倍もの作業を、氏がまともに完遂したとは到底思えないのである。よほど手抜きで行わなければ、120本もの教科書原稿を1年9か月で一人が行うことはできないであろう。
 
 氏は、手抜きをするために、基本的には扶桑社版から、そして一部は東書から盗作したのである。

○○氏以外の盗作者は誰か 

  更に、二の《(2)単元本文約70時間分を執筆した》を読むと、氏の言っていることは本当かという気がしてくる。氏は、単元本文については、「文化の領域の一部や江戸時代の大半、どうしても思いつかない部分を除き、本文約70時間分」を執筆したという。しかし、江戸時代部分にも多くの盗作箇所はある。もしも、氏の言うことが本当ならば、氏以外に盗作を行った人物がいることになる。それは誰であろうか。

 第4章は誰が書いたのか

   また、氏の言によれば、第4章(明治時代)はほとんど氏が執筆したことになる。だが、第四章の江戸時代部分はともかくとして、単元47「新しい国づくりへの道」以降については、ほとんど盗作は存在しない。扶桑社版と一番内容が似ているところであるにもかかわらず、第4章は全体として類似性がほとんど感じられないし、一番優れた記述がみられる部分である。つまり、一から自分の頭で文章を紡いでいったと思われる部分である。

  単元47以降の第4章は、氏以外の人物が書いたとしか思えないのである。恐らくは、育鵬社側の歴史認識をしっかり持った有能な書き手、恐らく著名な言論人が書いたものと思われる。それとも、氏自身が書いたのであろうか。とすれば、なぜ、氏は古代や現代についても、第4章と同じように自分の頭で一から文章を紡がなかったのであろうか。

 最初と最後に他社教科書の記述を見て執筆した○○氏


   最も注目される陳述部分は、二の(3)の部分である。もう一度引用しよう。

  執筆方法としては、まず各社教科書の本文記述に目を通し、大まかな内容と重要語句、分量を把握した後、一から文章を「一太郎」のソフトを用いて入力するという方法をとりました。執筆にあたっては、これまで長年自分が授業でおこなってきた展開方法や自作の予習プリント、板書図などをベ-スとして、その上で他社の教科書記述を参考にしながら、教科書にふさわしいものとなるよう文章を紡いでいきました。

 氏は、まず「大まかな内容と重要語句、分量を把握」するために、各社教科書の本文記述に目を通している。次いで文章を実際に紡ぐために「他社の教科書記述を参考に」している。二度も、他社教科書の内容や文章に影響される形で執筆していることに注目されたい。要するに、盗作の起きやすい形で、氏は執筆していた。だからこそ、氏は、前に報告したように、東京書籍からも文章を盗んでいたのである。

   だが、氏のやったことはそんな生易しいことではない。いわゆるデッドコピーを氏は多数行っている。例えば、育鵬社教科書は、国分寺建立について次のように記している。

聖武天皇は、国ごとに国分寺と国分尼寺を建て、日本のすみずみに仏教をゆきわたらせることで、政治や社会の不安をしずめ、国家に平安をもたらそうとしました。また、都には全国の国分寺の中心として東大寺を建立し、」(45頁)


  これは、扶桑社版の次の記述を書き写して、少々言葉を付け足せば出来上がるものである。

  聖武天皇は、国ごとに国分寺と国分尼寺を置き、日本のすみずみにまで仏教の心を行き渡らせることによって国家の平安をもたらそうとした。都には全国の国分寺の中心として東大寺を建て、、」(45頁)

  ちなみに、東京地裁判決は、このようなデッドコピー部分までも見逃したとんでもない代物である。

  データはもらわなかったから流用していない?

  次に二の(4)(5)の部分を検討しよう。(4)(5)併せて、氏はデータを育鵬社からもらわなかったから、「被侵害書籍の本文記述を流用することを企てた」という指弾はまったくの事実無根と言わざるをえません」と言う。データをもらわなかったという主張をそのまま信ずるわけにはいかないが、信ずるとしても、氏の論理は破綻している。この場合のデータとは電子データを指しているが、仮に電子データをもらわなくても、氏は、紙のデータを見たことは、前述のように、この陳述書の中で告白しているのである。紙のデータ(教科書本体か教科書の本文を書き写してカード化したもの)を見ながら、氏はデッドコピーさえも行ったのである。これをデータの流用と言わずして何と言うのか。

   (6)(7)(8)(10)は地裁判決に取り入れられた

  最後に(6)(7)(8)(10)に触れておこう。私は、最近になって○○氏の陳述書を読んだから、判決文を先に読んだことになる。陳述書を読んだとき、前に読んだような内容がちりばめられていた。まとめれば、(6)(7)(8)(10)はそれぞれ、(6)大部分は歴史的事実又はそれに対する一般的解釈に過ぎぬ、(7)検定・採択があるから教科書に大きな違いはない、(8)歴史認識が似ているから記述が類似したに過ぎぬ、(10)原告が指摘した箇所は全てありふれた歴史記述の表現である、といったことになろう。

  この4点は、全て判決でも記されている。実際に書かれたのは陳述書が先だから、陳述書が判決に大きな影響を与えたことになるのである。

  「私の中で咀嚼し血肉化された歴史認識に基づく文章」とは笑止千万

  (8)の所には、「一度私の中で咀嚼し血肉化された歴史認識に基づく文章は、その素材がだれのものであれ私自身の作品であることは論を待ちません。」という文章がある。しかし、「私の中で咀嚼し血肉化された歴史認識に基づく文章」がどうして他人の文章のデッドコピーになるのか。デッドコピーも「私自身の作品」と言えるのか。本当に笑止千万である。あるいは、このように言わされているのであろうか。

デッドコピーできなくなることを恐れた○○氏 

  (10)の最後に、つまり陳述書の最後に、「もしも原告の主張する著作権侵害の認定を一部分でも受けるようなことになれば、以後、どのような歴史教科書も執筆できなくなるので はないかと危倶しております。私は現場教員として、教育界にそのような大きな混乱を招く事態は避けねばならないと考えます。」と氏は述べている。これは、何を指しているのか。氏は、他社のフレーズを切り貼りして教科書を作成することが許されなくなること、コピペ教科書を作れなくなること、いや端的にはデッドコピーができなくなることを恐れて、このように述べたのであろう。

 コピペ教科書の合法化を招く判決

  なお、氏の要望通り、東京地裁平成26年12月19日判決は、デッドコピーの箇所も含めて、合法と判定した。前回までの記事で明らかなように、判決は、「歴史教科書には著作権はない」「歴史教科書はコピペで作っても合法である」という結論を導き出した。前代未聞の判決である。日本の著作権法の秩序を裁判所が自ら破壊していくような不当判決、というよりも不法判決である。その結果は、どうなるか。教科書の単元本文は盗作で作れるわけだから、コピペ教科書が氾濫する事態が訪れるだろう。特に執筆者は、真面目に文章を考えたり、学説研究をしなくなるだろう。教科書レベルは確実に低下していくだろう。この判決が確定すれば、確実にそうなっていくだろう。

  しばらく、育鵬社教科書の作り方の問題を追いかけていく。今回は被告ではない○○氏の陳述を扱ったが、次回は、被告が作り方についてどのように述べていたか、紹介していこう。


  



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