平和主義と国民主権・人権尊重との矛盾---『本当は怖ろしい日本国憲法』を読んで

   最近、長谷川三千子・倉山満『本当は怖ろしい日本国憲法』(ビジネス社、2013年10月)を読んだ。自由社の『新しい公民教科書』に触れていることもあり、簡単な論評を加えておきたい。

   本書は、国民教育の世界で「日本国憲法」の三大原則として教えられている国民主権、基本的人権、平和主義の三点について、それぞれが極めて害毒の大きいとんでもない代物であることを説いた啓蒙書である。三大原則なるものの害毒を、分かりやすく端的に記したのが、本書の最大の長所である。

  国民主権の怖ろしさ

 
 第一に、国民主権の害毒については、長谷川氏は「第一章 ホントは怖い国民主権」の中で次のような表現をしている。

  しかしもう一つ、教科書が語っていない「国民主権」の意味があるのです。それは、まさに「国民主権」の怖ろしい素顔であるとも言うべきものなのですが、一口に言うと、それは王様の首をちょん切れ、という原理なのです。                                   (23頁)

  この後に西欧政治史・政治思想史についての解説がある。フランス革命について次のような対談が行なわれている。

長谷川  最初は国王陛下万歳といって始まったはずなのに、いつの間にか王様の首を切り、王妃を殺し、三〇万人もの人々を大虐殺することになった。その原動力となったのが、国民主権というイデオロギーだったのです。

倉山  特権階級を倒せ。フランスは国民みんなのものだ。主権は国民にある。……ということで本当に主権を行使したのがフランス革命なんですね。     (37頁)

   人権の怖ろしさ

  第二に、「第二章 基本的人権の正体」の中で、人権の怖ろしさについて、二つのポイントを述べている。一つは、本来捨てなければならない否定的な概念であった「人権」を肯定的な概念に変えてしまったところに怖ろしさの根源があるということである。「自然権」が「人権」の本来の意味であるとしたうえで、長谷川氏は、ホップズの言う「自然権」について次のように述べている。

  彼(ホッブズ……引用者)はまず、人間が完全にバラバラの個人であって、ただ、各人が「自らの生命を守るためには何をしてもよい」という「自然権」を持っている--そういう状態を考えます。神もいない、慣習というものもない、もちろん法律も何にもない。すると、どういうことになると思いますか?                      (58頁)

  この後、倉山氏と長谷川氏の次のようなやり取りが続く。

倉山  アナーキー。無秩序ですね。ほんとうに滅茶苦茶で、みながみな殺し合いを始めるようなか感じですか?イラク戦争から現代にいたるまでのバクダッドみたいな状態ですね。

長谷川  しかもそういうところでは、自分の命を守ろうと思ったら、ただの正当防衛なんかじゃダメです。殺られる前に殺れ!  という怖ろしい状況です。あいつはちょっと目つきが悪い、たぶん俺の懐にあるこの食料を狙っているなと感じたら、予防線を張って相手を殺す。自分の生命を守るためにはそういうことをする自由もある、というのが、ここでホッブズの言う「自然権」なのです。
                       (58~59頁)


  このように否定的な意味を与えられていた自然権・人権を肯定的な意味に転換してしまったところから、人権の怖ろしさが生まれてくるという。肯定的な意味に転換したのが、ロック→米国独立宣言→「日本国憲法」の系譜であるという。

  二つ目のポイントは、本来微妙に意味の違う「人権」と「国民の権利」が混同されてしまうという点である。「国民の権利」は当然に守られなければならないが、「人権」すなわち「人間の権利」と言ってしまうと、外国人にも参政権を認めるべきだ、といった権利の暴走が始まるということだ。

  平和主義は、国民主権と人権を破壊する

  第三に、「第三章 矛盾だらけの平和主義」の中で、平和主義の怖ろしさについて説明している。トータルでいえば、両氏は、平和主義と国民主権・人権尊重とは互いに矛盾するものであり、平和主義は国民主権や人権を破壊していくことになるという。

倉山  日本国憲法の三大原則「人権尊重」「国民主権」「平和主義」の中で、国民主権による民主主義と平和主義は真っ向から対立する概念です。
   戦争が民主主義を促進し、民主主義が戦争を残酷にする。前者がナポレオン戦争で起こったことで、後者が第一次世界大戦で明らかかになったことです。
     (128頁)
  

倉山  ……拉致された人の人権を国家が取り返す力がないから、放ったらかしになっています。理由を見つけて戦争をしないという意味での平和主義を行っています。それを国民の大多数が容認している。特に人権尊重をいちばん切り捨てていますよね。この場合でいうと。        (132頁)

長谷川    いまお話しした通り、「国民主権」「人権尊重」と「平和主義」とは、端的な論理矛盾の関係なんです。
              (135頁)


  私にすれば、当然のことを述べた部分であるが、これだけ端的に分かりやすく平和主義と国民主権・人権尊重との矛盾を理論的に記した書物はないようにも思う。

  政府がなくなるような緊急事態への対処規定がない「日本国憲法」

  他にこの第三章で気に入った点が二つある。一つは、長谷川氏の「ここで、あらためてきちんと把握しておかなければならないのは、国内法で平和主義を謳うということ自体のおかしさです」(119頁)という言葉である。これは、本来、政治や憲法・国際法に携わる人間にとっては常識であったはずだ。この言葉をすべての日本人にかみしめていただきたい。本来、9条①に当たる規定さえも国内法で定めてはいけないものなのである。

  二つは、125頁から126頁にかけて倉山氏が述べていることである。倉山氏の憲法内容問題における最大の関心事が、政府さえもなくなってしまうような緊急事態の問題である。氏の言うところを引こう。

  結局、アメリカだと政府そのものが麻痺して法自体が崩壊してしまうようなとき、大統領がいなくなってしまうと終わりなんですね。副大統領以下が継ぎますと無理矢理制度上はなっていますが、政府そのものがなくなった場合どうするかというと、なにもありません。たまたまアメリカの場合、そのような事態が起きなかっただけです。実は、大統領、政府がなくなってしまったら終わりです。

  日本の場合、帝国憲法の時代には政府機能が麻痺したことが何度もありました。関東大震災で内閣が存在しないとか、二・二六事件で閣議一つ開けないとか、終戦時の混乱状況とか、政府機能そのものが麻痺したことがあります。でも、そのときに天皇がいるから、政府が潰れても天皇が回復することかができる。保険というか、安全保障装置としてあるのです。

  天皇主権と言われるのですが、いまの憲法の天皇と戦前の天皇となに違うかというと、平時の統治を比べたら同じです。国家儀礼を司る存在であり、実際の権力は行使しません。帝国憲法の場合、本当に政府そのものがなくなったような有事の状態のときに天皇が政府機能を回復するという役割がある。タイの王様がまさに今でもそうです。……
   ところが、日本国憲法には有事そのものの想定がない。 
                                    (125~126頁)


  
   この倉山氏の問題意識は重要である。この問題意識を、政治家諸氏には共有していただきたいと心から願うものである。

   「日本国憲法」の三大原則説について

  これまでもっぱら評価できる点を紹介してきたが、本書にとって必ずしも本質的な点ではないが、批判しておきたい不満な点が何点かある。三点だけ指摘しておきたい。

  一つは、八木秀次氏が既に指摘しているように、「日本国憲法」が国民主権、人権尊重、平和主義の三原則の立場をとっているとの立場をとっていることだ。この三原則説は、昭和30年に突然日教組等が公民教科書に持ちんだものに過ぎない。かつては少数説に過ぎなかったし、現在の憲法学でも、一番の多数派ではあるが、定説ではない。三原則説を自明のように記されると、少々批判したくなるところだ。三原則説が広がることによって、「日本国憲法」の運用が全体主義的になってきたし、三原則説に惑わされて自民党の憲法改正案などが全て国民主権を強調するようになっていることに留意されたい。それゆえ、教科書が作り上げた三原則説とか、定説ではないが教科書で広げられてきた三原則説といった説明が、私からすれば欲しいところである。

  また、さらに言えば、本書は、自由社も三大原則説を取っているように記している。検定合格本をみる限り間違いではないが、『新しい公民教科書」を最初に構想した私としては、七大原則説を記そうとしたが、検定過程で三大原則説を取っているかのような記述に変えさせられたことを強調しておきたい。
    *拙著『公民教科書検定の攻防』自由社、2013年、参照。

  自由社と東京書籍の九条及び自衛隊の記述は決定的に異なる 
 

  二つは、自由社の『新しい公民教科書』の九条及び自衛隊に関する記述への評価の問題である。長谷川氏が東京書籍の記述に触れると、倉山氏は、「自由社の教科書と余り変わりませんね」と応じ、『新しい公民教科書』の単元25「平和主義と安全保障」の一節を引いた上で、次のように述べている。

  自由社が左傾化しているのか、東京書籍が右傾化したのかは議論の余地があるとして。新しい歴史教科書をつくる会の藤岡信勝さんですら「こんなものしか書けないのか……」ということになってしまいます。              (118頁)  

  この部分には、がっくり来る。まず、藤岡氏には、この部分の記述について何の責任もない。あるとすれば、代表執筆者である杉原誠四郎氏か私に責任があるということになろう(二人とも著者ではないが)。その点がまず間違いだが、内容的にも、きちんと自由社と東京書籍の記述を比較検証していないことがわかる発言である。

  両社がどのように違うかは、詳しくは、本ブログの「平成24公民教科書資料Ⅱ(2)平和主義と自衛隊」 http://tamatsunemi.at.webry.info/201108/article_20.html  という記事その他を参照していただきたい。ここではまず一点指摘しておきたい。『新しい公民教科書』は、大コラム「もっと知りたい わが国の安全保障の課題」の中で、いわゆる芦田修正に基づいた自衛戦力肯定説を、教科書史上初めて紹介した。これは、画期的なことである。倉山氏は、一体、単元25の本文で何を展開することを求めているのか。まさか、自衛戦力肯定説を展開せよ、ということではあるまい。自衛戦力肯定説は正しい学説ではあっても、少数説であるし、公権解釈でもない。この解釈を教科書の単元本文で登場させることはほぼ不可能である。

  さらに言えば、単元本文だけを比べても、自由社と東京書籍は、決定的に異なる。自由社は、単元本文では、公権解釈に基づき、自衛隊を明確に肯定する記述だけをしている。これに対して、東京書籍は、公権解釈を紹介した後、「しかし、平和と安全を守るためであっても、武器を持たないというのが日本国憲法の立場ではなかったかという意見もあります」と記している。こういう場合には、後に書かれる「しかし」以下に重点があると解するのは当然である。それゆえ、東京書籍は、いずれかと言えば、自衛隊否定的な立場といえるのである。

  「日本国憲法」無効論について

  三つは、「日本国憲法」無効論に関する両氏の立場についてである。両氏は、第三章の終わりの方で次のように述べている。

倉山  だから日本国憲法は無効なんだという「日本国憲法無効論」があって、これはある意味で正論です。ただし、現実問題として、日本国憲法のもとで半世紀以上にわたってa法律もつくられ、行政機構もつくられ、働いてきたので、これをすべてさかのぼって無効にするということは不可能です。手続としては「憲法改正」という手続をとるほかない。

長谷川  その通りですね。b日本国憲法無効論をそのままストレートに現実の政策に持ち込むことは不可能なので、とにかく「憲法改正」でゆくしかありませんね。しかし、まずは日本国民全体に、日本国憲法がこういう致命的欠陥を抱えた憲法なんだということを知ってもらわないといけない。そのためにも、中学公民の教科書は非常に重大な役割を担っています。
                                     (148~149頁)
  

  上記発言を見て、私の努力不足のせいなのだろうが、倉山氏さえも「日本国憲法」無効論について傍線部aのように理解していることに愕然とした。前に何度も記してきたが、一応、体系的な無効論を展開している人は、すべて成立時に遡って無効にするとは述べていない。にもかかわらず、このように記すとは、南出氏が触れて回った「旧無効論は過去に遡って全てを無効にする議論である」との虚言を信じているからなのであろうか。

  次いで傍線部bに触れれば、現実政策にふれるのもよいが、現実政策以前に原理的に物事を考えるべきであると強調しておきたい。無効理由として考えられるものと有効理由と考えられるものといずれが論理的かを突き詰めて考えていただきたいと思う。

  さらに現実の問題に触れれば、「日本国憲法」改正でいくならば、両氏がいみじくも批判してきた国民主権など三大原則なるものは見事に生き残っていくだろう。とすれば、今の「日本国憲法」と大して変わらないものしか出来上がらないということになるのではないだろうか。いや、九条関係だけは一定改善されるだろうが、その他の点では、人権と国民主権の暴走は更に激しいものになるのではないだろうか。国民主権などの暴走をなくすためにも、「日本国憲法改正」ではなく、無効確認-帝国憲法復元改正方式で新しい憲法をつくるべきであろう。

  なお、長谷川氏は、「はじめに」の箇所で、次のように記している。

  日本国憲法を改正しなければならない最大の理由は、そこに盛り込まれた原理そのものに問題があるからであり、さらに言えば、日本国憲法が「憲法」だと自称していることそれ自体のうちに根本的なウソがそんでいるからです。         (4頁)

  非常に優れた認識である。だが、「日本国憲法改正」という形では、原理そのものの問題を克服できないだけではなく、傍線部のウソを正すことも出来ない。長谷川氏は、「日本国憲法」成立過程に関する自由社の記述について高い評価をしている。この部分は私が書いたものでもあり、高い評価は、それはそれで有難い。だが、まず、私が無効論者であるからこそ、比較的ましな記述をできたということを強調しておきたい。

  
  また、この部分の記述は、私自身の自主規制と「つくる会」内部の「検定」、そして本物の検定によって著しく歪められたものである。議会審議が統制されていた具体例を示すことは出来ず、何よりも検定によって「統制された議会審議」という小見出しも消さざるを得なかっことを強調しておきたい。
  *拙著『公民教科書検定の攻防』自由社、2013年、参照。

  要するに、国家の思想的枠組みが「日本国憲法」改正論の立場である限り、「日本国憲法」成立過程史は歪められざるを得ないのである。長谷川氏の言う「根本的なウソ」を正すには、「日本国憲法」無効論を拡大していく必要があるのである。
     


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この記事へのコメント

すず
2014年01月07日 16:20
はじめまして、先生の無効論支持者です。
このお二方とも、無効論を認めながら何故か「改正しかない」と言われますね。それで長谷川先生に「帝国憲法の問題点」をお尋ねしたことがございます。予算や財政の条項に触れられた後、「帝国憲法のほうがはるかに良い憲法です」というお答えでした。。。
倉山氏の言で天皇のことが非常事態に関して出てきていますが、帝国憲法と占領憲法では天皇は全く変わってしまっていると思います。帝国憲法では、天皇がいなければそれはもう日本ではないとなります。国体・国柄に触れない憲法論はあまりに浅いのではないでしょうか。
小山
2014年01月08日 01:13
コメントありがとうございます。倉山氏は内容的には国体を重視し帝国憲法を基礎にした改正を考えているようですが、それを「日本国憲法」改正と言う形で実現しようと考えているようです。ただ、それが困難だということは気付き出した感じもあります。
 「日本国憲法」は、日本及び日本人を差別する思想から作られています。日本人差別思想は、内容面よりも作られ方に現れています。私は、この作られ方の点に拘ることからしか、日本が独立を回復することはないと考えています。
 普通の国には「憲法」を押し付けることは違法である、とするのが国際法の立場であることは誰も否定しません。そして、今や、過半の人が「日本国憲法」は日本に押し付けられたということを否定しません。にもかかわらず、「日本国憲法」押し付けを違法行為として確認する作業を日本人はしていません。その作業こそ、「日本国憲法」が憲法として無効である確認を行う事です。ですが、護憲派はもちろん、改憲派も自主憲法制定派であるだろう倉山氏や長谷川氏も、この作業が必要だとは考えません
 ところが、無効確認をしなかった結果、日本人に対しては、国際法を守らなくてもよいという習慣が形成されてきました。例えば韓国が日韓条約に違反して「従軍慰安婦」問題等で攻撃してきたのに対して、日本が反撃を行わなかったため、ますます日本人に対しては国際法を守らなくても良いという習慣が強固なものになりました。
 「日本国憲法」改正という形で新しい憲法を作れば、渡部昇一氏がよく言うように、憲法としての正統性を「日本国憲法」に与えてしまうことになり、将来における外国からの憲法押し付けを拒否する論理を失うことになります。私は、長谷川氏や倉山氏には、作られ方の問題、無効論方式か「日本国憲法」改正方式かという問題について真剣に研究していただきたいと思っています。
すず
2014年01月08日 16:08
お返事有難うございます。
>国際法を守らなくてもよいという習慣が形成されてきました
わが国の秩序崩壊にじわじわと確実につながってゆきますね。
私も、ブログ「いつくしきのり」を細々としています。
http://itsukusikinori.cocolog-nifty.com/blog/
竹田恒泰氏の憲法論にも問題があると思います。

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