日下公人「昭和ひとけた生まれが考える英霊のこころ」

   日下公人氏の「昭和ひとけた生まれが考える英霊のこころ」という文章を読んだ。戦後生まれの私には、「ふーん、そうなんだ」と感じさせられることが多く、心に染み入る感じがした。戦前のことについては特に驚く話はないが、
米軍による占領開始当時の話、当時の日本の子供の話に驚かされた。

  頭に刻みつけるためにも、はしがき的な部分を除いて、以下に引用しておきたい。赤字や下線は、私が付したものである。



              昭和ひとけた生まれが考える英霊のこころ 
                        
                                                        日下公人

        ○   ○  ○  

 私より年上の戦中派の人はあまり戦争について話さない。特に戦争が終わってからは、話さないから言い伝えの世界からはもう消えかけている。活字になったものは行動記録や専門的・技術的な回顧が多くて、そのときどきのホントの戦友の気持ちや家族への想いや自分の気持ちを書いたものは少ない。

   また、戦中派で国内にいた民間人の考えていたことも活字の世界にはあまり登場しない。有名文化人の日記くらいだから、無名の庶民が、戦争や軍人に対して考えていたことはもう若い人には伝わっていない。

   戦争が終わったあとの若い人はそもそも戦争に興味がないから新しく知る気はないし、深く考えてみる材料もない。何しろ毎日が忙しい。流行の会話に乗りおくれないようにするだけでも大変なことだが、それは豊かで日進月歩する日本になったからである。   

      ○   ○  ○ 

  若い人がサイパン島へ新婚旅行に行って、日本軍の戦車を背景に写真をとっている風景を論じて、左翼的な先生は”日本はおろかな戦争をした、おろかな国だった”と教え、右翼の評論家は”兵士が生命を捧げた武器に腰をかけるとは何事か”と慨嘆するが、昭和十九年当時の日本人の心を知っている私の感想はまるでちがう。
 
  ”兵士は喜んでいるだろう。戦車のまわりで大いに遊んであげるのが最高の功徳だ”

  しかし、これには解説がいる。たくさん書かないと豊かで平和な日本に生まれ育った今の若い人には分からないと思って書く。

  第一に、日本人は平安時代以来、平和愛好民だった。第二に、大正九(一九二〇)年から昭和五(一九三〇)年の頃の日本は民主主義と自由主義の実現へ向かって着々と前進中だった。第三に、高度経済成長と高度科学技術の発展に成功中の国だった。第四に、世界中を見渡して”大衆文化が花開く国”を実現していたのは当時日本とアメリカだけだった。--戦後の歴史はこれを教えていない。

  第五に、靖国神社に祀られている英霊のほとんどはその一九二〇(大正九)年代に生まれ一九三〇年(昭和五)代に育った人である。と、考えないと英霊が新婚旅行の若い人を見て、どう思っているかが分らない。

  英霊はそういう幸せな日本を守るために生命を捨てたのであり、戦後の日本は再度そういう国をつくったのである。子供や孫の世代がサイパンに新婚旅行にくるようになったのを見て死に甲斐があったと思っているはずである。

         ○   ○  ○  

   私より約十年年長の古川潔氏は華南の地を桂林まで転戦した人で靖国神社の経理部長をなさっていたが、あるとき、靖国神社の境内が若い男女の宴会場になっているのを嘆いて、深夜は境内を閉鎖しようという意見が出たとき断固として反対した。

   ”自分は英霊の気持ちを良く知っている。誰でもいい何でもいい若い日本人に自分達のことを思い出して欲しいのだ。幸せな若い人を見れば嬉しいのだ”と。

   終戦のとき古川さんは多分二十五才で私は十五才だが、気持ちは同じだと思って嬉しかった。もう古川さんも亡くなられたので、私はこれを書いておかなければならない。

      ○   ○  ○

  戦後の常識はつくられたもので実際とは全然ちがっている。

  日本の将兵は全員、字が読めて書けた。日本都市には電鉄・デパート・映画館があり、書物の出版点数は世界一だった。農村にもタクシー・自転車・ラジオ・大衆化粧品・大衆薬品・大衆娯楽と高等教育が普及中だった。

  英霊はそういう人達なのだから、アメリカ兵より文明・文化がおくれていたとか狂信的な天皇崇拝で軍国主義に洗脳されていた……などは、まったくの作り話である。そんな軍国主義教育は成功しない裡に終戦がやってきた。むしろ戦後、進駐してきたアメリカ兵の方が字が読めず、掛け算割り算もできず、歴史も芸術も何も知らないと日本人の方が驚いたものである。

  戦後、日本の知識人が書く日米文化交流話の第一行には”ギブ・ミー・チョコレート”と言って、ジープに乗っているアメリカ兵のまわりに子供がむらがったとあるが、それは数か月たってからのことで、また一部の子供のことである。

  それより当時のアメリカ兵が日本の子供を見てどう思ったかを書いて欲しいが、それは読んだことがないので自分が思ったことを書いておこう。

  その一『この島の子供はチョコレートを知っている。なぜだろう。日本は文化国らしい。』

  その二『子供は食べずに家にもって帰るとは。日本は文明国である。』

  当時日本の三百市町村は空襲のため瓦礫の山になり子供はハダシだったが、日本人の教養・礼儀・精神は健在だった。

  また、戦死した人の心をうけつぐ心が子供にもあって、それが戦後の復興を実現した。

  アメリカ占領政策は日本人の心を改造しようとしたが、これも日本経済の高度成長と高度工業化の方が先に実現したので失敗に終わった。

       ○   ○  ○

   戦後、六十六年間日本は軽軍備で過ごすことができたが、それは一にも二にも身命を賭して勇戦敢斗した日本人の底力と気概を外国が知っているからである。戦後、我々は豊かで住み良くて、世界中から模範と仰がれるような国づくりに成功したが、そんな日本の成長についても外国の方が日本より良く知っている。

   日本人の方が知らない。

   それは今回の東日本大震災で”ガンバレ・ニッポン”の声が世界中に広がったことでも分かる。

   フランスやアメリカに二十年三十年住んでいる友人に聞くと、災害の様子をネットの動画でみた。町の人が”お前、日本人か” ”ガンバレ、ニッポン”と肩を抱かんばかりに話しかけてくるので驚くという。
   
   ネットの世界でガンバレの日本語は転送また転送で広く深く浸透しているらしい。

   マスコミだけでは、こういう庶民レベルの日本への尊敬や共感は分からない。

   庶民の世界の日本は孤立していないのである。

      ○   ○  ○

   話を元にもどして、昭和一桁の世代が知っている戦争中の日本人の原爆観を書いておこう。

   その一、”日本が先に発明したらもちろん先に使ったんだからしゃあないな”敗戦後の日本は劣化して『唯一の被爆国』という表現を多用しているが、これは戦後しばらくしてから出て来た言葉で米国への当て擦りでしかない。

   その二、その頃、私達は焼夷弾にやられた火の中を逃げて逃げて、結局焼け死んで惨たらしい姿になった親類を大阪・神戸の町に探し歩いていた。--焼夷弾より遥かに殺傷力のある原爆も武器の一つに過ぎないと分かっていた。

  その三、”日本陸軍のお偉方はこれで降参する決意を固めることができてホッとしているだろうな”
 
  戦後に登場した歴史家が想像するより日本人ははるかに程度が高かった。と後世に伝えておきたい。


                                                *『やすくに』平成23年9月1日号より          


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この記事へのコメント

okusama
2011年10月08日 21:00
育鵬社の歴史教科書流用問題は、会として、きちんとした文章であちらに釘をさしておいて下さい。

育鵬社への優柔不断な態度が四年先にも影響すると思います。

歴史教科書がつくる会の内容とほぼ同じであることは良いことですが、このような本の作り方は倫理的に許されないと思います。よろしくお願いいたします。

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