平成24~27年度中学校歴史教科書比較資料Ⅰ(3)聖徳太子の外交

   Ⅰ、対中韓隷属史観 

   (3)聖徳太子の外交  

  最近の教科書は、聖徳太子の外交を対等外交と位置づけることさえもなくなっている。以下に掲げておこう。


○東京書籍
①聖徳太子の外交……対等外交、一切なし。
「2節 古代国家の歩みと東アジア世界」下、単元「1 聖徳太子の政治改革」の下、「聖徳太子の政治」の小見出し下、
「そこで日本は、東アジアでの立場を有利にし、隋の進んだ制度や文化を取り入れようと、607年に小野妹子などを送って以後、数回にわたって隋に使者をつかわし(遣隋使)、多くの留学生や僧を同行させました」(34頁)。

○日本文教出版
①聖徳太子の外交……単元「2 東アジアの統一国家」の下、「蘇我氏と聖徳太子」の小見出し下、「また,隋と対等の立場で国交を結ぼうとしたほか、進んだ中国の文化をとり入れようとし、小野妹子らの遣隋使を送って、制度や仏教を学ばせました。外交使節や留学生・留学僧には、渡来人が多く採用されました」(33頁)

○教育出版
①聖徳太子の外交……単元「9 あつく三宝を敬え」下、「聖徳太子の政治と遣隋使」の小見出し下、「また、隋との国交を開き、中国から進んだ文化を取り入れようとして、小野妹子らが遣隋使として送られました」(28~29頁) ……対等外交なし
   ・資料として「日出る処の天子……」引かれる(28頁)

○清水書院
①聖徳太子の外交
単元「2 聖徳太子の政治と飛鳥文化」下、「蘇我氏の台頭と聖徳太子」の小見出し下、「中国と対等の関係をむすぼうと、小野妹子を使節として隋へ派遣し(遣隋使)、留学生や僧も同行させて、すぐれた文化を学ばせた」(32頁)
・「日出処天子」云々なし

○帝国書院
①聖徳太子の外交……
「蘇我氏と聖徳太子」の小見出し下、「外交では、6世紀後半に中国を統一した隋へ、小野妹子らを遣隋使としてつかわしました。……高句麗と対立していた隋は、倭国との関係を重くみて、……」(28~29頁)。……対等外交なくなる。
・「日出処天子」が資料として引かれる。

○育鵬社
①聖徳太子の外交……単元「8 聖徳太子の国づくり」の下、「聖徳太子の登場」の小見出し下、「隋の出現は、東アジアの国々の大きな脅威となり、朝鮮半島の百済、高句麗、新羅は、隋に朝貢しました」(36頁)。
・「聖徳太子の外交」の小見出し下、「607年、太子は隋の皇帝あての手紙を妹子に託し、その中で、わが国が隋と対等な国であることを強調しました。隋の皇帝はこれに激怒しましたが、当時、隋は高句麗と対立していたため、わが国と敵対するのは好ましくないと判断し、妹子らに使者を付き添わせて帰国させました。
遣隋使には、多くの留学生や留学僧が従いました。長期の滞在を終えて帰国した彼らの新知識は、のちの大化の改新に始まる新たな国づくりに、大きな役割を果たしました。」(37頁)。
②備考……「天皇」採用の意義
「聖徳太子の気概」との小コラム下、「『皇帝』とは、秦の始皇帝位以来、中国の歴代王朝の長を示す位でした。皇帝は全世界を支配する者とされ、周辺の国々の長は皇帝から『王』の名をあたえられました。国王は皇帝に服属し、貢ぎ物を差し出すことで、中国の強大な力や富、文化の恩恵を得てきたのです。わが国もかつては『倭王』の名をあたえられ、服属国の一つとなっていました。
 『隋書』には、607年、『日出づる処の天子、書を日を没する処の天子に致す。恙無きや』(日が昇る国の天子から日が沈む国の天子にあてて手紙を送ります。ご無事におすごしですか)という手紙が、聖徳太子から隋の皇帝・煬帝に送られたことが記されています。そこには、たとえ小国とはいえ、日本は独立国として中国と対等だという意味がこめられていました。
 また、『日本書紀』には、608年、推古天皇が隋の皇帝に送った手紙に、『東の天皇、敬みて、西の皇帝に白す』(東の天皇より、つつしんで西の皇帝に申し上げます)とあり、『王』の称号にかわり、『天皇』の称号が使われたことが記されています。
 このようにわが国は、聖徳太子の時代にはすでに、中国の影響力からぬけ出そうとする政治的な動きを示していたのです。
 *このとき、天皇の称号が初めて使われたとされる。一方、天武天皇(在位673~686)の時代になってからだとする説もある。」(37頁)

○自由社
①単元「11 聖徳太子の新しい政治」下、「隋の中国統一」の小見出し下、「強大な軍事力をもつ隋の出現は、東アジアの国々にとって大きな脅威だった。朝鮮半島の百済、高句麗、新羅は、隋に冊封された。日本も、これにいかに対処するか、態度を迫られることになった」(50頁)。
続けて、「聖徳太子の登場」の小見出し下、「このような岐路に立っていた日本にあらわれたのが、聖徳太子(厩戸皇子)という若い指導者だった。……
600年、聖徳太子は、隋に使者(遣隋使)を送った。日本が中国の王朝と交渉をもつのは120年ぶりのことだった。遣隋使によって隋の強大さを知った太子は、日本が独立した国家として発展するために、大陸から優れた文化や制度を取り入れる必要があると考えた」(50頁)。
続けて、「冠位十二階と十七か条の憲法」の小見出し下、「聖徳太子は、隋との対等な外交を進める前に、まず、国内の改革に着手した」(51頁)。
・単元「12 遣隋使と『天皇』号の始まり」の下、「遣隋使の派遣」の小見出し下、「国内の改革に成功した聖徳太子は、607年、ふたたび遣隋使を派遣した。代表に選ばれた小野妹子は、地方豪族の出身だったが、冠位十二階の制度で才能を認められ取り立てられた、優れた人物だった。
   このときの隋の皇帝にあてた手紙には、『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや』と書かれていた。太子は、手紙の文面で対等の立場を強調することで、隋に決して服属しないという決意を表明したのだった。  
 隋の皇帝・煬帝は、この手紙を無礼だとして激怒した。朝貢国が、世界に一人しか存在しない皇帝の別名である天子という称号を、みずからの君主の称号として用いるのは許しがたいことだった。しかし、高句麗との戦争をひかえていた煬帝は、日本と高句麗が手を結ぶことを恐れて自重し、帰国する小野妹子に返礼の使者をつけた」(52頁)。
  次の「『天皇』号の始まり」の小見出し下、「翌年の608年、3回目の遣隋使を派遣することになった。そのとき、国書に記す君主の称号をどうするかが問題となった。中国の皇帝の怒りをかった以上、中国の君主と同じ称号をとなえることはできない。しかし、ふたたび『王』と称し中国に冊封される道を選びたくはなかった
   そこで、このときの手紙には、『東の天皇、つつしみて、西の皇帝にもうす』と書かれた。皇帝の文字をさけることで隋の立場に配慮しつつも、「皇」の文字をみずからの称号に使うことで、両国が対等であることを表明したのである。これが、天皇という称号が使われた始まりだった。日本の自立の姿勢を示す天皇の称号は、その後も使われ続け、とぎれることなく今日にいたっている」(52~53頁)。








 

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