「日本国憲法」、公民教科書、歴史教科書

アクセスカウンタ

zoom RSS 中国軍に交戦者資格はあるのか(3)――中国軍の本質は匪賊軍、交戦者資格はない

<<   作成日時 : 2018/04/21 01:12   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

 一、傭兵制度下の中国軍

 朱執信『兵的改造輿其心理』における中国軍の分析 

  前2回のブログ記事で示したように、中国軍は恒常的略奪や虐殺を行い、戦時法規を全く守らない軍隊であった。この中国軍の改造を真剣に考えた日本の軍人がいる。佐々木到一である。佐々木は、国民党による中国革命の成功を願い、孫文を敬愛し、蒋介石とも親しい関係にあった人物である。国民党の制服をデザインしたことでも知られる。

 佐々木は、中国革命の成就、中国の近代化は一に軍の改良にあると考えた。中国軍の改良方法を考え続け、その考察を満州国軍形成に活かした。佐々木が中国軍の改良方策を考えるにあたって大いに参考にしたのが、朱執信『兵的改造輿其心理』である。朱は国民党員であったが、1920年に広東で龍済光という人物に殺された。まずは、田中秀雄『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』(草思社、2014年)に基づき、朱の中国軍論を見ておこう。朱の論は、出版時期からしても、直接的には1910年代の中国兵を分析対象としていると思われる。

 中国兵の平時と戦時 

  朱によれば、中国兵は、平時では「万事不管」とされる。すなわち、ただただ放っておかれる。訓練はない。上官が奨励することもあり、賭博が中国兵の最も好むところである。多くの者は負けが込み、怒りを持つ。この憤怒が戦うときのエネルギーとなる。「元々一般社会からの脱落者が多く、性格上、彼らは自暴自棄の心理状態になりやすい」(37頁)という。

 戦時になると、「行軍がある。鍋や薬缶、布団を担いで行軍する。馬に乗った指揮官は慰労などしない。極度の疲労は怒気をはらむ」(同)。

 戦場では、逃亡すれば処刑されるし、前には敵、後ろには督戦隊の銃が待ち受ける。「前を向いても後ろを向いても地獄だ、ままよ……。指揮官はこの自暴自棄の心理をうまく利用して、敵に向かわせる」(同)。ともかく、自暴自棄の心理が戦うときのエネルギーになっているのである。

 兵士の中には当然歴戦のつわものの老兵がいる。彼らは「出動の命令が来ると、歓喜の表情を示す。勝利の後の掠奪という恍惚的体験が忘れられぬから」(同)である。こうして、掠奪を事とする中国兵士が生まれるわけである。

 下士官単位の腐敗は小隊長、中隊長、大隊長、連隊長に広がる

  歴戦のつわものの老兵とは下士官クラスであろう。中国軍の腐敗は、この下士官の単位から始まる。「仮にある小隊長が隊内のこの腐敗を除去し、改造しようとすると、必ず残りの小隊長らが反対する。中隊長が、その中隊を正常化しようとすると、他の中隊長から迫害される。というのも改造は、これらの小隊長や中隊長の飯の種を奪うことになるからだ。だから、賢明な小隊長や中隊長らは、下士兵卒の腐敗的な雰囲気に自ら身を投じる。他の中隊長らに同化して一身の安全を図る。こうして戦時のどさくさにまぎれての殺人、略奪、強姦も一緒になって遂行する雰囲気が出来上がる」(36〜37頁)。

 下士官→小隊長→中隊長と広がった腐敗的雰囲気は、大隊長も飲み込んでいく。「経理は請負制だから、それを部下の中隊長らと一緒になって齧る。つまり、欠員ができると、その分を補充したとして経費を浮かし、部下と山分けにる。こうして部下の信頼をつなぐことができる」(37〜38頁)。 

 それゆえ、兵隊の逃亡は歓迎するところである。「いよいよ戦争かなという時に、搔き集めればよい」わけである。こんなことでは、兵士の訓練をしたいと思ったとしても、出来はしないだろう。

 腐敗的雰囲気は、更に、大隊長の上の聯隊長も飲み込んでいく。「部下の各単位の長官を指揮することはできるが、その各単位の下士卒とは関係しない。軍隊改造の必要を思ったとしても、大隊長以下の意向、圧迫を免れることはできない」(38頁)のである。
 
 中国軍の行動のパターン 

  こうして下士官から上下に拡大していく腐敗的雰囲気に従い、中国軍の行動パターンは決まってくる。中国軍に関して次のような諺が出来上がる。
 
 支那の軍隊がある町に入り込むと、
    第一日目は銭を奪い、
    二日目は女を漁る
    三日目からは賭場を開く
    四日目以降に指揮官が指揮官らしいことを始める。
     「騒擾を禁ず」などの布告は騒擾が終わった後のことである。  (38頁)


 つまり、中国軍には軍紀など存在しないのである。なぜか。

 支那軍では、直属の将校とその護兵(従卒)を除けば、その他の上級者には敬礼はしない。ほとんど路傍の人である。それだけではない。将校は部下の意を迎えねばならない。つまり上者が下者に服従する関係になっている。 (38頁)

 何か中国軍が掠奪や虐殺をして諸外国が抗議すると、将校クラスは戦時国際法に関する知識だけは持っているから改めなければならないと思い、「掠奪するな」と命令を出す。だが、命令が下に降りきることはない。いや、小隊長は下士官クラスの意向に逆らえないし、中隊長は部下の小隊長クラスに逆らえないから、将校たちも一緒に掠奪しないまでも、掠奪を見て見ぬふりをして黙認するしかなくなるのである。

 軍隊の腐敗は省全体に広がる

 こうして聯隊単位で腐敗悪事が広まり、軍隊が一つの省を支配することになれば、省全体が腐敗していく。本来、兵卒は匪賊から農村や農民を守らなければならない存在であるが、「しかし彼らは匪賊と結託する。大商人は、身の安全のために軍閥の長に上納する」(38頁)こととなる。

  「化兵為工」による兵士の改良

 絶望的である。公の精神を持ち、善を守るために動くべき軍隊及び兵士たちが、私的利益を追求し、悪事の根源となっているわけである。以上のような兵隊を、朱執信はどのように改造するのか。

 「化兵為工」、つまり兵隊を人並みの労働者に教育しなおすという。まず悪事を知り尽くした老兵を聯隊規模から追放する。そして市井で仕事を持っていた者を抽出して地域内に作られた工場で働かせる。経験を有しない者も訓練して働かせる。むろんきちんとした給料が支払われる。練兵と職業訓練を同時に行なう。兵役が終わった時には兵隊は立派な職能者となって社会に旅立つ。一般社会では後備兵として待機する。老後になれば、養老費用も支払われる。そして徐々に軍隊内を浄化して理想軍隊に変えていく。悪質な兵隊は別の聯隊で引き受けるであろう。まずは理想軍隊を一つ作り、それを徐々に増やしていく。   (38〜39頁)


 「化兵為工」という考え方は、本質を突いたものである。この考え方で作られた規律ある軍隊が、一つだけ存在した。佐々木も注目した広東商団軍である。広東の商人たちの私兵である。辛亥革命の年に発足した。広東も戦乱となり、商民たちの被害を食い止めるため、自衛軍を創設した。五四運動の時も、襲ってきた学生たちを排除した。1923年1月、陳炯明軍を駆逐した孫文の広東政府軍数万がなだれ込んできた時も、1昼夜戦い、勝利した。

 商団軍の構成について、田中氏は次のようにまとめている。

 商団軍の構成は一般商人で、給与はなくボランティアだ。佐々木の知人も兵員で、毎朝早くから熱心に各個教練を実施している。佐々木は、この商団軍が何かもっと大きな役目を遂行できるのではないかと期待したのである。  (43頁)

 傍線部にあるように、職業をきちんと持った人たちが兵士となり、訓練をきちんと行っている。公の精神もあり、しかも強い。佐々木は商団軍に期待したが、1924年10月、惨憺たる市街戦を経て、孫文の広東政府に潰されてしまうのである。

 佐々木到一『支那陸軍改造論』1927年2月、行地社出版部

 朱執信の本に学び、広東商団軍に期待した佐々木は、1926年9月までに『支那陸軍改造論』を執筆し、1927年2月、行地社出版部から出版した。田中本を通じて、佐々木の中国軍論を見ていこう。

 佐々木によれば、中国の軍隊制度は傭兵制度である。一般社会では食べられない社会の落伍者を集めたものが軍隊である。兵士という職業は、一般人が最も賤業視するものである。だが、軍隊は「社会上必須の……貧窮者を収容して徒食させる一種の社会政策実施機関」(60頁)である。

 この質の悪い兵士たちは、傭兵制度の結果、軍閥巨頭の私兵として使われている。軍閥は「辛亥革命の遺物」である。その職業とは何か。軍閥の職業とは「戦争と言う投機事業によって、権勢の争奪・地盤の争奪をなし、一挙にミリオネアたらんとするものである」(60頁)。

 では、どう、改造するか。一言で言えば、私兵的軍隊を改造して国軍を完成させることである。そうすれば、国家統一への曙光も見えてこようと佐々木は考える。軍隊の改造のために行う具体策としては、一は兵士に対する監督を厳にすること、二は兵士の給与を豊かにすること、三は将校に教育を施すことである。

 これらは全て、端的には掠奪防止策である。一と二から言えば、給与を増やせば掠奪に対するモチベーションがなくなり、監督を厳しくすれば略奪の機会が減少するだろう。しかし、兵士に対して掠奪するなと言い、監督をきちんと行うのは将校クラスである。そこで、三の将校教育が重要となる。

 将校教育としては、この時点では、佐々木は黄埔軍官学校に注目している。このような学校を卒業した者が新軍、「教導団」をつくり、モデルともなり他の軍隊の抑えになっていけば軍隊の改造ができるのではないかと捉えるのである。

二、徴兵制度下の中国軍
 
  ここまで傭兵制度下の中国軍についてみてきたが、日中戦争期には、徴兵制度が広がっていく。徴兵制というと、国家意識や国民意識と関連したものであるとの連想が働く。だが、徴兵制下の中国軍も、全く変わらなかった。いや、徴兵の仕方の過酷さに注目すれば、傭兵制の方がましだったのではないかと思われる。

 以下、北村稔・林思雲『日中戦争の不都合な真実 戦争を望んだ中国 望まなかった日本』(PHP研究所、2014年)を参考に徴兵制についてみていこう。林思雲氏が執筆した本書の「第四章 日中戦争と中国社会」の「二、徴兵の実態」に基づき見ていくこととする。

 拉致による徴兵

  中国兵について書いた本には必ず出て来るとも思われるが、林氏は、最初に、「良い鉄はクギにしない。良い男は兵士にはならない」の諺を引く。そして次のように続ける。

 兵士の社会的地位が低く誰も兵士になりたがらないので、通常の方法で十分な兵士を集めることは困難であった。かくして中国の軍隊では、「抓壮丁(成人男子を捕まえる。青年の農民を拉致し無理やり兵士にするのである)」の方式で兵士が補充された。  (153頁)

 つまり、通常の方法では兵士は集まらないので、農村の青年を拉致し無理やり兵士にするのである。それが中国における徴兵であった。

 連れてこられた兵士たちは、当然ながら機会を見て逃亡する。「士官の重要な仕事は、逃亡を見張ること」(153頁)であり、逃げ出せばすぐ銃殺された。

 グラハム・ペックの描いた徴兵の仕方

  アメリカ人のグラハム・ペックは『一個美国人看旧中国』という著書の中で、徴兵について記している。ペックによれば、徴兵するのに整理番号も体格検査もない。法律にも基づく徴兵免除もないという。

  重慶の国民政府が兵士の必要人数を決定すると、各省ごとに供出人数を指令する。各省は、各県と各郷に供出人数を指令する。法律上徴兵免除の制度がないにもかかわらず、各地方の官吏が公開価格を示し、徴兵免除証明を売却する。したがって、金持ちは絶対に戦争に参加しない。「かくして最終的に徴兵されるのは、極貧で家を離れられない人間ということになる」(154〜155頁)。

  ある地方で、指令された人数を徴兵できないときはどうするか。「通行人を拉致するか、人買い組織から壮丁を買い入れて充足する。徴兵の過程で、ある者は殺され、ある者は傷を負わされ、多くが部隊の駐屯地にたどり着くまでに餓死してしまう」(155頁)という。ペックによれば、徴兵の過程で死ぬ人間の方が、軍隊に入る人間より数が多いというのである。

 巡邏隊、壮丁営

 通行人の拉致を行うのは巡邏隊である。アメリカ人のホワイトらが著した『来自中国的驚雷』に出てくる。前述のように、多くの人間が金銭で徴兵免除証明を買い徴兵逃れをする。そのため、地方役人は、指令された徴兵人数を確保できない。そこで巡邏隊が出現し、付近の村々をめぐり、通行人を拉致し、地方役人に売り渡すのである。例えば、四川省の成都では、一人の壮丁はヤミ市場で5万元から10万元(白米5袋か豚三匹の値段)で売られていた。こうして拉致された壮丁は、壮丁営に集められて収容される。壮丁営の様子について、この本は、次のように記している。孫引きしておこう。

 「ナチスの強制収容所の悲惨を極める状況が伝わってきたころ、中国では徴兵がクライマックスに達していた。当時、徴兵された壮丁たちを収容する施設である成都の壮丁営に勤務していた医者たちは、ドイツでの恐ろしいやり方に驚くどころか、『ナチスの強制収容所の様子は、我々の所と全く同じである』と語っていた。

 成都のすぐ近くにあった壮丁営の一つでは、四万人を収容して兵士にする訓練をほどこすはずであったが、多くの人間が連れて来られる途中で死んでしまい、生きて訓練を受けたのは八千人であった」  (156頁)


 壮丁を壮丁営へ送る部隊……張登上『国民党兵役視察目撃記』より

 最も悲惨なのは、壮丁を壮丁宮に送る道中である。道中の在り方について、張登上『国民党兵役視察目撃記』は次のように記している。これも孫引きしておこう。

 「壮丁を送る部隊というのは、犯人を護送する軍警(武装警察)のようなものであった。壮丁の大多数は、脅迫されたり、陥れられたり、騙されたりした者たちである。彼らは護送の途中では常に一本の太い縄で数珠繋ぎにされており、兵士たちは着剣した銃に弾を込め、大敵を前にしたように隊列の前後左右を固め、虎視眈々と護送したのである」(157頁)

 縄で数珠繋ぎという光景は、中国赤十字協会の会長を日中戦争期に務めていた蒋夢鱗が書いた『新潮』にも出てくる。これも孫引きしておこう。
 
 「私は軍営の中で、多くの壮丁が繋がれているのを見た。逃げるのを恐れてのことである。僅かの行動の自由さえなく、動けば殴られる。粗末な食べ物も少量で、生命を維持し餓死させないためだけである。このような残酷な待遇のもとで、多くの壮丁が前線に着く前に死んでしまう。

 ある日のこと、私は何百人もの人間が、手と手を縄で縛られ数珠つなぎにされているのを見た。彼らは山の上におり、我々の車がその下を走っていたのだが、ちょうど全体で小用をしているときで、まるで雨が降り家の軒先か水が流れてくるようであった。彼らは大便をするときも集団行動であり、そのときに用を足さなければ、勝手に大便をさせてもらえず、機会を逸すると大便がしたくとも許されない。……

 貴陽にあった壮丁収容所で、私は広州から来た壮丁と話したことがある。『何処から来たのか』と問うと、『曲江から出発した当初は七百人だが、今では十七人しか残っていない』と言う。『なぜ十七人しか残っていないのか。途中で逃げたのか』と問うと、『誰も逃げてはいない。逃げたって何処へいくのか。途中はどこもかしこも荒れ果てており、食べる物もなく、飲む水さえない。ここに来るさいには途中の食料を全く用意しておらず、食べ物が有るところでは食べないところでは飢えを待つだけで、しかし歩かなければならなかった。多くのところでは、水を飲むと腹を下した。腹を下しても病気になっても薬はなく、それで大部分の人間は途中で死んだ』」(158〜159頁)


 700人が17人になったというのは特殊例であろうが、徴兵過程で極めて多数の人間が死んでいったことは確かである。

 ネット上の議論

 それゆえ、林氏によれば、ネット上で、戦死者よりも徴兵過程で死亡した者の方がはるかに多いという議論が行われているという。その根拠しては次の四点が挙げられている。

   1、日中戦争中の八年間に徴用された壮丁の総人数は、約一四〇五万人である〔国民党軍政部長何応鈞『八年抗戦之経過』(一九四七年)・付表「抗戦期間各省歴年実徴壮丁人数統計表」〕。
   2、日中戦争期の国民党軍の戦死者は一三三万人、失踪者一三万人、病死四二万人、逃亡三二万人。このほか五〇万人が日本軍に投降し、偽軍(日本の傀儡政権の軍隊。特に汪兆銘政権の軍隊をいう)に編入された〔同右〕。
   3、戦争開始時の国民党軍の人数は二五二万人〔『中国抗日戦争史』〕
   4、戦争終結時の国民党軍の人数は四二二万人〔同右〕       (160頁)


 上記数字を信用するならば、集められた国民党軍兵士は252万+1405万=1657万となる。ここから、2に挙げられている戦死者等を引くと、1657万−(133万+13万+42万+32万+50万+422万)=965万人となる。この965万人は恐らく徴兵過程で死亡したと推測できる。少なくとも、数百万人が徴兵過程で死亡したとは言えよう。
  
三、中国軍とは何か

 軍の存立目的は私利追求

 以上みてきたところから分かるように、中国軍とはとんでもない軍隊である。辛亥革命後の内乱状態で種々雑多な軍隊が生まれたが、ほとんど全ての軍隊の存立目的は私利追求である。国の為と言う意識は、匪賊軍、軍閥軍には上下ともない。国民党軍といっても、多くは、軍閥軍や匪賊軍が看板を架け替えだけに過ぎない。しかし、一部の国民党軍の精鋭、例えば何応鈞が率いた第一軍は、国の為と言う意識が多少ある。共産党軍にも、一定程度ある。

 軍の行動方式は戦時法規違反を常態とする

 しかし、すべての中国軍の行動方式は、匪賊そのものである。戦時法規を守る意識は、上下ともない。戦時国際法違反の行動だらけである。国民党軍の精鋭であろうと、共産軍であろうと、掠奪と虐殺、放火を恒常的に行う。戦時法規違反ばかりの行動を行う。むしろ、彼らは反日意識、反外国意識が軍閥より強いだけ、極めて残酷なことを行う。1927年の南京事件や1928年の済南事件、1937年の通州事件に見られるとおりである。総じて、北方軍閥よりも国民革命軍や共産軍の方が残酷な行為を行うと言ってよい。

 つまり、戦時法規を守らないのが恒常的なスタイルだから、交戦者資格の第四要件、すなわち戦時法規遵守要件は中国軍には当てはまらないと結論づけることができる。とりわけ、中国兵は、世界の戦争に於ける、どの例よりも残酷な殺し方、殺害後の死体損壊を行う。中国史の中でも、北伐期から日中戦争にかけの時代は、中国軍が最も残酷であった時期ではないだろうか。

  さらに言えば、すぐに制服を捨てて便衣兵として戦うスタイルに注目するならば、第二要件すなわち制服要件や第三要件すなわち公然兵器携帯要件にも、一定程度の疑問が生ずると言えよう。

  この第二要件と第三要件以上に疑問が生ずるのは、第一要件すなわち指揮官要件である。一応、指揮官はいるのだが、中国軍は上意下達の組織になっていない。指揮官の命令をそのまま下士官クラスが聞くとは限らない。むしろ、下部に上部が従うのが中国軍の特徴である。

  指揮官要件とは、降伏して捕虜になるときに重要となる。指揮官の命令は絶対という通常の軍隊ならば、指揮官が白旗を掲げて降伏すれば、捕虜となっても基本的におとなしく敵の言うことを聞くと信ずることができる。降伏して捕虜になったふりをして敵の隙を見て襲い掛かるのは、背信の行為に基づく戦闘となり、戦時法規違反である。それゆえ、きちんとした軍隊の指揮官が降伏を表明した場合には、このような卑怯な振舞いはしないと信ずることができる。だが、上下関係がきちんと成立していない中国軍の場合は、いくら指揮官自身は大人しく敵の統制に服するつもりでも、勝手に兵卒が自分たちを連行する日本兵に手榴弾を投げつけたり、逃亡したりすることが生ずるわけである。

 このようにみてくれば、中国軍の場合は、制服要件や公然武器携帯要件以上に、指揮官要件が成立しているかどうか疑問となると言えよう。

 第一要件から第三要件までのことはともかくとして、もう一度言うが、文句なく、中国軍は交戦者たる第四要件すなわち戦時法規遵守要件を欠如しており、原則として交戦者の資格を欠いていると結論づけることができよう。

参考文献
 田中秀雄『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』草思社、2014年 
 北村稔・林思雲『日中戦争の不都合な真実 戦争を望んだ中国 望まなかった日本』PHP研究所、2014年

 転載自由

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
中国軍に交戦者資格はあるのか(3)――中国軍の本質は匪賊軍、交戦者資格はない 「日本国憲法」、公民教科書、歴史教科書/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる