「日本国憲法」、公民教科書、歴史教科書

アクセスカウンタ

zoom RSS 中国軍に交戦者資格はあるのか(2)――恒常的に悪事を働く中国軍

<<   作成日時 : 2018/04/21 00:52   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 今回は、中国軍が、原則として、或いは基本的に交戦者資格を持っていない存在であることを具体的にみていきたい。この具体例については、田中秀雄『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』(草思社、2014年)を参考にした。

 田中秀雄『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』(草思社、2014年)

 今年の1月には、この本を細かくノートを取りながら読み続けた。日中対立、日中戦争に至る過程について具体的に記しており、この本を読んで初めて、日中が戦争に至る過程と理由について納得した。これまで日本と中国とが戦争に至る本をかなり読んできたが、戦争に至る過程と理由についてストンと理解できたことは一度もなかった。ストンと理解できたのは、田中氏が「昭和の始まりからの新聞記事を一日刻みでずつと調べてみようではないかと思ったのである。大変ではないかと思ったが、やる価値はあると思った。自分は知っているつもりでいて、実際は知らない史実があるかもしれないと思ったのである」(あとがき)という問題意識から研究したからであろう。

 続けて氏自身も、「やってみれば自分が知らないことばかりであった。新聞記事から派生すればそこには当時の総合雑誌記事がある。そこにも未知の世界が広がっていた。知ったかぶりはよくないことだ」と書いた後、続けて「本書に書いたことは、読者の方の幾人かは知っておられることかもしれないが、ほとんどの方は知らないことばかりではないかと思っている」(同)と記している。

 私自身も、知らないことばかりだった。そして、本書を読むうちに、前述のように戦争に至る過程と理由について理解するとともに、革命の志から比較的規律があると勝手に私が思い込んでいた国民革命軍や共産軍も、全く匪賊軍と変わらぬ悪事ばかりを働いていたことを知って驚いた。本書は別に中国軍の悪事に焦点を合わせた本ではないが、本書を読み進めるうちに、原則として、或いは基本的に中国軍は交戦者資格を完全に欠如しているのではないかと考えるようになった。

 以下、田中氏の本に挙げられている具体的記述に基づき、孫文の広東政府軍から順に軍隊の種類別に、中国軍の行っていた悪事を挙げたうえで、交戦者資格について検討していきたい。

 (一)孫文の広東政府軍

 孫文の広東政府軍――捕虜虐殺

 最初は、大元帥孫文の広東政府軍についてみて行こう。1923年4月、広東政府に反乱を起こした沈鴻英軍と広東政府軍の戦いが行われた。5月8日、孫文と親しかった佐々木到一は、軍用列車で孫文と共に戦場視察を行った。その時の目撃談として、次のようなことが語られている。

 北江という川沿いに列車で行くと、後ろ手に縛られた死体が次々流れていた。政府軍が沈鴻英軍の捕虜を拘束したまま、川に突き落としていたのだ。  (30頁)

 この広東政府軍の行為は、外国軍との戦いで行った行為であれば、単なる捕虜殺害であるだけではなく、捕虜虐殺に当たるだろう。殺害自身には軍事的理由があったとしても、殺害方法は残虐であり、不適切であると言える。ただし、単なる内乱における行為だと考えれば、戦時国際法の適用をそもそも受けないとも捉えられる。いずれであれ、孫文の軍隊も、このような虐殺を行っていたことを確認しておこう。

 孫文の広東政府軍――アヘン漬け

 それだけではない。孫文軍はアヘン漬けでもあった。1923年9月、孫文政府は、また陳炯明軍と戦った。陳炯明は広州のすぐ近くの恵州城まで進撃してきた。佐々木は、孫文の周りには起案できる者がいない関係で、作戦計画を起案したという。

 9月18日、佐々木は孫文とともに石油発動船「大南洋」に乗り、恵州に向かう。そして、孫文と佐々木は、政府軍の主力である広西軍(劉震寰軍)の本営に激励に行く。その折のことが次のように記されている。

 孫文は、銃器の種類が統一されておらず、四十三種もあると言ってこぼした。将校たちは阿片を吸う。参謀長は食後、師団長室で立て続けに十服ばかり吸った。そして携帯ベッドのある蚊帳の中に入り込み、ムニャムニャ言いつつ寝てしまう。戦線から帰ってくる大隊長、聯隊長も必ず吸う。そして土間に痰を吐き散らす。兵隊たちには談話処と称する阿片吸引所がある。劉震寰の経営で、兵卒の給与を巻き上げるシステムである。
 
  攻略戦は、いくら賞金を出すかという請負制だった。兵士が勝とうとするモチベーションの多寡は、金額に依る。孫文の役目はそのカネを持参することである。佐々木は葦で編んだ靴下のような袋に、銅貨で百元入っているのを見た。これを六、七十個は持参しなければ、戦争にならない。所詮、彼らは借り物の軍隊なのだった。  (33〜34頁)


 傍線部にあるように、上から下まで、広東政府軍はアヘン漬けであった。また、国家のためという意識を持たず、自己利益追求の軍隊であった。公の精神は皆無である。極めて素質の悪い軍隊であった。したがって、次のような悪さも平気でする。1923年当時の広東政府軍(雲南や広西の軍閥)の行動について、田中氏は次のように記している。

 広東市内の映画館に兵隊が只で入ろうとした。それを番人が止めた。兵隊は一応引っ込んだが、しばらくすると、将校の指揮する一隊が現われて、映画館のあるデパートの窓ガラスを片つ端から叩き割り、商品を残らず強奪した。デパート側が折れ、その軍隊は入場料の一割を付加税として召し上げることができるようになった。
 佐々木の住居の前が運河である。雲南軍が、往来する貨物船から税金を取り始めた。佐々木は毎日観察した。一か月一船一元というシステムだったのが、領収証は同じでも取立料が三日目から二元となって五日目から二・五元となった。  (36頁)


 別に戦闘の時でなくても、掠奪が行われていることが注目される。

 (二)北伐期の国民革命軍

 国民革命軍第二軍(軍長・魯滌平)と第六軍(軍長・程潜)――掠奪と民間人虐殺

 1925年3月には孫文が死亡し、1925年7月1日には広東軍政府が広東国民政府(汪兆銘、蒋介石)に改組される。そして、1926年7月には北伐宣言が出され、北伐が進行する。北伐を推進したのは蒋介石であるが、1926年12月には国民政府は広東から武漢に移転する。移転と共に、国民政府は容共の性格を強め、汪兆銘等国民党左派が実権を握るようになる。

 この容共政権に対抗して、1927年4月18日、蒋介石は、反共の南京国民政府(国民党右派政府)を成立させた。二つの国民政府が睨みあう状況になるが、1927年9月、南京政府と武漢政府との統一国民政府がつくられる。一旦、蒋介石は下野するが、蒋介石以外に軍をまとめられるものはおらず、1928年年明け早々、国民革命軍総司令に復帰する。そして、1928年6月、国民党軍が北京に入城し、北伐が完了するのである。

 この国民革命軍は、北伐過程で様々な事件を引き起こしているが、1927年3月24日には本当にあった南京事件を起こす。事件を起こしたのは、国民革命軍第一軍に次ぐ精鋭部隊である第二軍(軍長・魯滌平)と第六軍(軍長・程潜)に属する兵である。

 彼らは、日本領事館を襲い、暴行と掠奪を行った。英米仏各国の領事館も同じ目にあった。英国総領事は重傷を負った。金陵大学の米人学長をはじめとして幾人もが虐殺された。領事館侵入も国際法違反だが、民間人虐殺も掠奪も戦時法規違反である。

 ちなみに、関連条文を示せば、占領権力について規定した陸戦条規46条には、「家の名誉及権利、個人の生命、私有財産並宗教の信仰及其の巡行は、之を尊重すへし。私有財産は之を没収することを得す」という条文がある。同じく、第47条には「掠奪は、之を厳禁す」がある。掠奪禁止の条文としては、第28条「都市其の他の地域は、突撃を以て攻取したる場合と雖、之を掠奪に委することを得す」も存在する。

 ともあれ、あからさまな戦時法規違反を国民政府軍、それも精鋭部隊が行っていたことに注目されたい。この南京事件及び漢口事件(4月3日)等一連の事件については、田中秀雄編集・解説『もう一つの南京事件――日本人遭難者の記録』(芙蓉書房出版、2006年)に詳しく記されているので、興味のある方は一読されたい。

 北伐軍の宣教師虐殺

  さらに北伐軍は、いろいろな事件を起こす。1928年4月16日、北伐軍(馮玉祥軍)は、山東省済寧にある米国の教会病院で、シーモア宣教師を射殺する。理由は、北軍の負傷者を収容治療していたということである。シーモア宣教師の行為は、何の問題もない行為である。これは、民間人虐殺であり、戦時法規違反である。
 また、4月28日、済南の南50キロの泰安では、北伐軍がハーバード宣教師を虐殺している。これも戦時法規違反である。

 済南事件――北伐軍による騙し打ち、掠奪強姦、猟奇殺人

  北伐軍は、1928年5月3日、これまで述べてきた悪行をはるかに超える悪事を働く。済南事件である。これより先、4月26日には、日本人居留民の保護のために内地から派遣された日本軍が済南に到着した。4月28日には、更に後続部隊が到着した。日本人居留民約2千名は、主として、南北1.5キロ、東西3キロの商埠地に住んでいた。日本軍は、この商埠地全体を警備することとしたが、特に東西二か所の重点守備区域を設けて居留民をそこに集めることとした。重点守備区域には中国軍は全く入れないこととし、土嚢や鉄条網でシャットアウトすることとした。中国兵が重点守備地域以外の商埠地内を移動することは認めるが、商埠地内に滞留する時は武装解除すると決めていた。

 ここへ、5月1日黎明、劉時、賀耀祖、方振武らの配下の北伐軍3万の兵が済南城に入城した。5月2日午前9時には、福田彦助師団長率いる歩兵第45聯隊を中心とする第六師団(熊本)が到着した。済南派遣軍は全部で3500名ほどになった。対する北伐軍は、城内に約6万、商埠地に約4万存在したという。

 とまれ、この日、日本軍と北伐軍との間で交渉が行われ、軍紀が整っているとの判断の下に、日本側は北伐軍に治安維持を任せることとした。したがって、商埠地内の中国兵の自由通行を許し、鉄条網や土嚢などの防御物を夜半までに撤去した。

 しかし、日本側の北伐軍に対する信頼は裏切られた。5月3日午前9時半前、『満州日報』取次店の吉房長平宅が北伐軍に襲われた。家は掠奪され、吉房長平は暴行を受けた。中国軍恒例の掠奪と暴行である。

 久米川第一小隊が現場に急行し、掠奪兵を逮捕しようとしたが、北伐軍の兵舎から射撃を受け、応戦した。これをきっかけとして、商埠地内の至る所で、中国兵の略奪と射撃が一斉に開始される。中国兵は、隊伍を組んで歩き、計画的に掠奪していた。商埠地の堅固な建物に拠った4万の中国兵と3500名の日本兵との戦いとなった。

 3日の夜11時から、国民革命軍総司令部からの要請に応じて、停戦交渉が始まった。北伐軍全体の商埠地からの撤退を決めた。しかし、上の命令がなかなか浸透しないのが中国軍の特徴でもある。翌朝になっても商埠地から撤退しない中国兵が多かった。派遣軍は、これらを掃討しながら商埠地の治安に当った。ようやく安定した後、中国軍が日本の民間人に対して行った惨殺などが明らかになった。田中本から引用しよう。

 五日になり、中国人から密告があり、鉄道線沿いの石油タンクの近くに人が埋められているという。少し盛り土があった。掘り返すと、酸鼻の極みというべき惨殺死体が男性十二名、女性二名の十四体も現れた。えぐられた目、切り取られた鼻、柘榴状に切り裂かれた顔、腹を切り裂かれて引き出された内蔵、陰茎が切断された男性、陰部に棒が突き刺された女性、全員が縄で縛られ、熱湯をかけられたり、石油で焼き殺されたりしていた。 (150頁) 

 何とも、残酷な殺し方である。これらの遺体は済南病院で検死された。6日の朝には、西田領事は、英米独の領事にも遺体を見せた。「どの領事も目を伏せながら、日本の正当防衛を認めた。十日、芳澤公使が北京政府外交部長の羅文幹に遺体の写真を見せたが、彼もやはり目をそむけた」(同)。

 さらに言えば、北伐軍は、日本人の留守宅から完璧な掠奪を行い、殺さずとも女性に凌辱を加えていた。素っ裸で城内に日本人男女を連行した。日本人墓地を暴き、死体を寸断していた。被害にあったのは日本人だけではない。ドイツ人家屋が二戸掠奪され、アメリカ人宣教師も一名虐殺された。

 ここでも、北伐軍は、掠奪、民間人虐殺などの戦時法規違反を犯しているのである。さらに言えば、治安維持を責任を以て行うと言って騙し、掠奪暴行を働き戦闘にまで持ち込んだ北伐軍の行為は、陸戦条規が禁ずる背信の行為による敵の殺傷といえよう。陸戦条規第23条@項は、「特別の条約を以て定めたる禁止の外、特に禁止するもの左の如し」として、禁止事項の一つとしてロ号に「敵国又は敵軍に属する者を背信の行為を以て殺傷すること」を規定している。まさしく、北伐軍は、治安を任せろ、大丈夫だと言って騙し、警備を解かせた後に掠奪暴行に及んだ。この点でも、戦時法規違反といえよう。

 革命軍に寝返った孫殿英軍―――泥棒、陵墓損壊 

  北伐完了後、1928年7月3日から10日間、革命軍に寝返った孫殿英軍は、北京の東約100キロにある清朝の東稜を荒らした。

 最も堅固な乾隆帝や西太后の陵墓はダイナマイトで破壊され、納められていた宝石や珠玉は一つ残らず盗まれた。西太后の遺骸は寸断された。当時の価格で数千万円に上るという宝石類はひそかに天津や北京で売り払われた。兵隊は裁かれたが軽い罪で済んだ。一部の宝石は宋美齢へのプレゼントとなった。 (156頁) 

 (三)共産軍

 彭徳懐軍と朱徳軍――掠奪、民間人の処刑、放火

  次に共産軍について検討しよう。1930年5月10日、蒋介石VS閻錫山、馮玉祥、汪兆銘の中原大戦が行われる。双方合わせて50数万の軍勢が、河南省と山東省を中心にした中原で激突した。初めは閻錫山らの方が優勢であったが、両軍の戦いは9月まで継続する。

 国民政府軍の主力が北に出払っている隙をついて、1930年7月末、彭徳懐が率いる共産軍が蜂起した。湖南省の省都長沙を占領するとともに、ソビエト政府をつくり、日本領事館を焼き払った。隣の江西省の省都南昌では、朱徳が率いる軍が蜂起し、富豪の家を掠奪し、数十名を「土豪劣紳」として処刑した。更に、南昌から100キロ北の九江でも、欧米の領事館を焼き払った。共産軍も、掠奪、虐殺、放火の悪事を働いていたことがわかる。

 テロリストとしての共産軍の残虐行為―――民間の外国人虐殺 

 共産軍が行った悪事のうちショッキングな行為は、次の例である。

 八月初旬、福建省の建陽で英国人女性宣教師二人が共産軍に拉致され、切り取られた指が英国領事館に送り付けられ、二千ドルの身代金を要求された。領事館は黙殺した。十月になり、二人の切り取られた首がゴロリと領事館に送り付けられた。ランプソン公使は激怒し、国民政府に抗議した。日本をはじめ、揚子江を往来する外国汽船が共産軍に銃撃されるのは日常茶飯事となり、列国は自衛活動に入った。 (187頁)

 1930年8月の出来事だが、まるで、現代のテロリストの所業である。

(四)張学良軍、楊虎城軍

 中村大尉虐殺事件

 次に容共に舵を切っていった張学良軍である。最初に1931年の中村大尉事件を見よう。

 六月二十七日、関東軍の現役将校が内蒙古、王爺廟北方の大興安嶺山中で行方不明になった。中国官憲発行の護照(パスポート)を携行し旅行していた中村震太郎大尉である。同行の井杉元曹長、ロシア人、モンゴル人の四名は奉天軍に属する興安屯懇団に逮捕されて射殺されていたのである。しかも、目をえぐり、耳をそいで証拠隠滅のために焼き捨てられていた。 (194頁)

 上記行為は、不法逮捕、不法殺害、死体損壊である。特に、傍線部の行為はひどく残虐な行為である。敵の兵士といえども、死者はすでに敵にあらずとするのが、戦時法規の原則である。それゆえ、1929年赤十字条約死者の保護規定第3条「各戦闘後戦場の占領者は傷者及死者を捜索し、且掠奪及虐待に対しこれを保護するの措置を採るべし」(日中とも批准)の趣旨に従い、死体損壊は許されない行為である。
 
 満州事変における張学良軍(敗残兵)―――民間人虐殺、放火

 次に、満州事変で敗れ敗残兵となった張学良軍についてみておこう、張軍は、次のようなことをしていた。

 満洲各地で日本軍に撃退された敗残兵が掠奪と虐殺を繰り広げていた。九月二十六日、京奉線を走る列車が新民屯近くでレールを外され、脱線した。転覆した客車は待ち構えていた敗残兵の掠奪と虐殺の標的となり、六十数名が死傷した。欧米関係では八名が犠牲となり、インド人一名が殺害され、女性を含む数名が行方不明となった。

 これには後日談がある。破壊車両は天津に運ばれ展示された。日本軍の空爆によるもので、無辜の中国人が多数殺害されたと宣伝に利用された。 (200頁)


  これは、完全に強盗殺人である。しかし、傍線部にあるように、中国は、自分たちが行った悪事の下手人を見事に日本人にすり替えている。そして、大成功した。この手法は、特に済南事件以降、国民政府が多用したものである。

  さらに、張学良軍は、奥地の朝鮮農民を襲った。
 
 奥地の朝鮮農民は敗残兵の毒牙にかかりやすかった。撫順の北約四十キロの遼寧省鉄嶺県や開原県の二千名余りが生活する朝鮮農村一帯が襲われ、家はことごとく放火された。かろうじて虐殺を免れた農民は山に逃げ込んだ。虐殺は百名に上った。女性や子供に犠牲者が多かったのは、稲刈りの時期で避難を躊躇した家族が多かったためだ。

 十月一日、敗残兵掃蕩と農民保護のために重松大隊と警官隊が遼寧省鉄嶺県大甸子に到着した。山に隠れていた農民は日章旗を見て狂気のごとく山を駆け下りてきた。十日ほどろくに食べていなかった彼らに食糧を配った。虐殺死体は目もあてられなかった。鉈で頭部を割られた男性、負った子供ごと刺殺された母親。藁を切る押切で首を落とされた婦人の遺体があった。 (201頁)


 ここでも、放火と虐殺が行われていることが注目される。

 楊虎城軍――西安事件における掠奪

  次に、張学良とともに西安事件を起こした楊虎城軍である。1936年12月12日、張学良と楊虎城は、「蒋介石の親衛隊を皆殺しにし、蒋介石を西安に連れ戻り監禁した」(294頁)。このとき、楊虎城軍は、3日間にわたって西安市内を掠奪した。
 
 この間、楊虎城軍の兵隊が絶好の書き入れ時とばかりに市内の掠奪を行った。西安駅の蒋介石の随行者の専用車両が十七回の掠奪でがらんどうとなり、省公署、保安処、経済委員会弁事処などの公機関では衣服椅子テーブルなど一切合財なくなった。中央軍の食糧倉庫も襲われ、兵隊はこれらを市民に笑顔で売り、別の場所で「掠奪したな」と恐喝して回収した。これが三日間続いた。 (295頁)

 (五)満州事変以降の国民政府軍

 青島の税警団――朝鮮人部落から掠奪

 1937年4月、黄埔軍官学校一期生の黄杰(こうけつ)が、蒋介石に命じられて青島にやってきた。その際、「密輸取り締まり」の名目で税警団を連れてきたが、その実態は中央正規軍であった。税警団は、5月、青島近郊の城陽の朝鮮人部落を襲った。お決まりの掠奪、暴行事件を二回連続起こした。

 上海の保安隊――大山中尉事件

 1937年8月9日、第二次上海事変につながる大山中尉事件が起きる。

 九日午後五時頃、大山勇夫中尉が上海西部にある日本紡績工場の警備から陸戦隊本部に連絡のために虹橋飛行場東部の道路を通行中、突然中国保安隊から数十発の銃撃を受け、運転手の斎藤要蔵一等水兵と共に即死し、車は激突大破した。大山中尉は、青竜刀で顔面半分を粉砕され、銃剣で心臓部をえぐり取られた。まさに鬼畜の行為だった。靴や時計は掠奪された。 (309頁)

 突然予期せざる時に攻撃するのは背信の行為による敵の殺傷となり、陸戦条規23条@項ロ号の違反とも考えられるが、即死した後に加えられた顔面破壊や心臓の取り出しは、赤十字条約死者の保護規定違反である。また、靴や時計の掠奪は同規定に違反するし、陸戦条規の掠奪禁止規定にも違反する。

 保安隊とは正式には軍隊ではなく治安維持を担う警察である。第一次上海事変後の停戦協定(1932年)で、市政府内の区域には中国軍は入れないこととなり、保安隊が警備することになった。しかし、ひそかに国民政府正規兵が保安隊と称して停戦地区内に入り込んでいた。そして、1937年7月末には、規定では2千名のはずの保安隊は6千名へと増えていた。更には、服装も正規兵と変わらない恰好で、機械化部隊さえも配備されていた。完全に、警察ではなく、実質、国民政府軍であった。

 第二次上海事変における中央正規軍――戦時法規違反のオンパレード 

  1937年8月13日、第二次上海事変が生じる。

 十三日午前九時十五分、便衣兵が、陸戦隊本部に向かって猛射を浴びせ、正規軍が陣地構築中の陸戦隊に射撃を始めた。民家に隠れた便衣兵が、陸戦隊員を狙い撃ちした。日本人が多い共同租界の虹口に避難民が滞留していた。そこへ中国軍が砲撃してきた。 (309〜310頁)

 まさしく、突然予期せざる時の大規模な戦闘開始であり、敵対行為開始条約(所謂開戦条約)違反である。また、背信の行為による敵の殺傷となり、陸戦条規23条@項ロ号の違反でもある。そもそも圧倒的に兵力が優勢な中国側が便衣兵を使う必要はないはずだが、ともかく、便衣兵による攻撃は、交戦資格なき者の戦闘であり、これも戦時法規違反である。更には、避難民が滞留している処への攻撃も、非軍事目標への攻撃であり、完全に違法である。

 さらに、14日の戦闘は次のようであった。

 十四日午前十時、上海では中国軍は空からも攻撃し、陸戦隊本部や領事館、日本軍艦めがけて爆弾を投下してきた。日本軍はこれに応戦、日本機も出撃し、空中戦も始まった。

 午後四時過ぎ、中国機はキャセイホテルやパレスホテルがある南京路の入口に二五〇キロ爆弾を投下した。人間が吹き飛び、十数台の車が破壊され、付近の建物のガラスは粉々に粉砕された。欧米女性が血まみれになって泣きわめき、夥しい死傷者が倒れ込み、あたりは阿鼻叫喚の地獄図と化した。六時過ぎには避難民で雑踏するフランス租界の繁華街の新世界に爆弾を落とした。  (311頁)


 そもそも圧倒的な兵力を誇る中国軍が空爆する必要はないと思われるが、空爆するとしても軍事目標に向かって爆撃しなければならないはすだ。ところが、技術が未熟なせいもあるのだが、キャセイホテル等がある南京路の入口に対する爆弾投下は、非軍事目標に対する爆撃となり、戦時法規違反であろう。フランス租界に対する爆弾投下は、中立国に対する攻撃となり、これも違反である。さらには、中国側は使用禁止のダムダム弾さえも使っていた。まさしく、戦時法規違反のオンパレードである。

 圧倒的な劣勢が続いていた日本軍であるが、少しずつの増援で、9月初めには優勢となる。その結果、中国軍の悪事が更に明らかとなる。

 陸軍二個師団の上陸は戦況を変化させた。中国避難民や捕虜の口から驚くべき事実が漏れてくる。武力衝突前から停戦協定内に入り込んだ中国軍は、地区内中国人の退去を許さず壮年者は兵士に仕立て、老人は軍夫に、、女子は慰労隊の名の下に中央軍将兵の暴行を公認した。正規の兵站設備もなく、土民の食糧を随時強奪して使用していた(『満州日日新聞』九月三日付)。 (314頁) 

 傍線部は、まさしく慰安婦強制連行・性奴隷化の話である。

 第二次上海事変における中央正規軍――慰安婦強制連行・性奴隷化

 慰安婦強制連行・性奴隷化の話は、次の事例からも知られることである。

 十月三日、安達二十三大佐率いる歩兵第十二連隊は、上海北の羅店鎮の南の劉家宅を占領した。遺棄死体の中にやたらに婦女子の死体が多く二百五十体にも上った。不思議に思い、捕虜を尋問したところ、付近の妙齢の女性を大量に連行し、掠奪した着物を着せて弄んでいたことが発覚した。安達部隊の猛攻が息を継がせないほどたったので、連れ歩くのが面倒となり、また暴行が日本軍にばれるのを恐れて機関銃で射殺して退却したのである。ひと月前の情報にあった慰労隊がこれだったのだろうか。 (315〜316頁)


 少なくとも、1937年8月から9月にかけて、中央正規軍は慰安婦を強制連行し、性奴隷として弄んでいたのである。

 南京戦前の中央正規軍――中国の民間人からの掠奪と放火

 抗戦を表明していた蒋介石は、12月7日、南京を退去してしまった。すると、また中央正規軍なのに、中国軍は掠奪を始めた。
 
  蒋介石退去後の南京は大混乱に陥り、無政府状態となった。市内警備についていた中国兵が指揮官の命令に反抗して、所々で掠奪を開始、各所に火災を起こす惨状を呈した。南京を脱出する市民は片っ端から兵隊に貴重品を奪われた。夜になると、揚子江は炎で赤々と染められた。 (328頁)

 傍線部にあるように、指揮官の命令など聞かないのが中国兵である。特に掠奪については聞かない。ここにも、指揮官要件さえも成立していないのではないかとの疑問が生まれる所以があるのである。

 (六)第29軍

 1935年12月、冀察(河北省とチャハル省)政務委員会が成立した。その委員長を務めたのが宋哲元であり、彼が軍長を務めたのが第29軍である。国民政府軍の一部とも言えるが、対日関係で特に重要な軍隊なので、独立して扱うこととする。

 天津で――掠奪

 1936年1月2日、第29軍の兵隊40名が、天津大沽(白河河口の町)で、日本商店2軒を襲った。現金や商品を掠奪した。更には日章旗を引き裂いた。

 通州事件――保安隊と29軍による大虐殺

 第29軍は、冀東自治政府の保安隊ともに、通州事件を起こし、日本人大虐殺を行っている。この事件については、別記事で独立して扱うこととする。

 29軍による慰安婦強制連行と性奴隷化

 次に、1937年10月、日中戦争の真っ最中の時期の話である。国民政府の中央正規軍と同じく、29軍も慰安婦を強制連行し、性奴隷として扱っていた。

 十日、北京の正陽門(東站)駅に日本の軍用列車が到着した。「北京だ、北京だ」と叫んで異様な風体の百数十名の女性が降りてきた。

 話は盧溝橋事件勃発後まで遡る。戦意を失った第二十九軍は、北京退去に際して、兵士の慰めとなるべき女性を、少女から人妻、母親であろうが構わず、避難の名目で強制的に連れ去った。総計千数百名であったらしい。抵抗する者は衆人環視の中で強姦され、虐殺された。妻を取り戻そうとする夫も殺された。

 女たちは保定に連れられ、そこが危うくなると石家荘まで連行された。しかし老いた者や病人は置き去りにされた。途方に暮れる彼女らを二人の米人宣教師が発見して、教会の地下室に収容し保護していた。

 九月二十四日、日本軍は保定を占領した。治安の回復を確認した宣教師は日本軍に女性たちのことを相談した。日本軍は気の毒なことと同情し、特に軍用貨車三両を提供して十月八日に保定を出発させた。女たちは途中で日本兵から弁当や菓子をもらい、「謝謝」と喜びながら北京に戻ることができたのである。 (318頁)


 
(七)満州国に帰順した中国軍

 最後に満州国軍に帰順した中国軍の例を見て行こう。満州国軍といえど、元は多くが張学良軍である。なかなか軍規律を身に付けることが出来ず、初期には問題のある軍隊であった。それを関東軍が教育して規律ある軍隊に少しずつ改造していくわけである。ここでは、1933年の満州国建国初期の段階における事例を見ておこう。

 張海鵬軍(満州国に帰順)による残酷な処刑、民間人への暴行

 1933年3月末、満州国に帰順した張海鵬軍は、奉天省の鉄嶺・撫順県下で、悪逆の限りを尽くした兵匪の頭目二人を討伐した。張海鵬軍は、頭目二人の顔の皮を剥ぎ、手足を切断した。伝統の凌遅刑である。

 また、張海鵬軍は、「まだ兵営の整わない新京の民間分宿先で、酒や料理を強要し、応じないと罵詈を吐き、侮辱し、殴打するという無茶をした」(218頁)。

 満州国軍靖安遊撃隊(純然たる親日軍)

 この軍隊は、関東軍小松己三雄参謀の下に奉天自治政府直轄部隊として発足した。純然たる親日軍である。しかし、例えば1933年8月には、次のような不祥事を起こしている。

 同じ頃、日本の富田サーカス団が奉天城に興行にきていた。八月五日、将校を含む満州国軍の兵隊百名が無料で入ろうとし、それは困ると断った日本人五名を射殺して逃亡した。  (248頁)


 以上みてきたように、中国軍は到底軍隊といえる代物ではなかった。満州国に帰順した満州国軍さえも初期には同じような存在であった。明らかに戦時法規を守らない軍隊であった。

 したがって、交戦者の第四要件を欠く軍隊であり、交戦者資格を欠く存在であった。今回は個別事例を追いかけてきたが、次回は、中国軍論を歴史的・理論的にまとめて展開していくこととする。


   転載自由



テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
中国軍に交戦者資格はあるのか(2)――恒常的に悪事を働く中国軍 「日本国憲法」、公民教科書、歴史教科書/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる