「日本国憲法」、公民教科書、歴史教科書

アクセスカウンタ

zoom RSS 聖徳太子から厩戸王への転換は何をもたらすのか―――対等外交の抹殺

<<   作成日時 : 2017/03/09 01:26   >>

ナイス ブログ気持玉 4 / トラックバック 0 / コメント 0

 文科省は共産党系の学び舎をスタンダードにするつもりか

 既報のように、新中学校学習指導要領案では、現行指導要領にある「聖徳太子」の文言が「厩戸王(聖徳太子)」に転換される。この転換とは何をもたらすであろうか。

 もたらすものは二つある。一つは、国内政治史の中心が聖徳太子や推古天皇から蘇我馬子に移動するだろうということである。またもう一つは、聖徳太子の対等外交という位置付けが更に消えていくことである。すなわち、皇室中心の記述が蘇我氏中心に変えられ、その時代の日本はやはり中国の属国であったという世界観が広がっていくのであろう。

 要するに、既に学び舎が実践している記述がスタンダードになっていく危険性があるということである。何とも信じられないことに、学び舎は、その反日性以前に、指導要領も教科書検定基準も守らないのに検定合格した教科書である。本来検定不合格にすべきだった教科書である。そういう学び舎がスタンダードになるかもしれないということである。学び舎が、内容以前に、教科書検定基準違反で検定不合格にすべきだったことについては、拙著『安倍談話と歴史・公民教科書』(自由社、2016年)第三章第二節と第四節を参照されたい。

 蘇我氏を時代の中心と捉え、法隆寺ではなく飛鳥寺をクローズアップ

 では、学び舎は、どのように聖徳太子の時代について記述しているであろうか。学び舎は、第1部第2章「日本の古代国家」の単元3【蘇我氏と二人の皇子−飛鳥時代−】で、聖徳太子の時代を記している。

 この単元名に注目されたい。蘇我氏が二人の皇子(聖徳太子と中大兄皇子)より先に書かれている。蘇我氏が時代の中心、政治の中心として捉えられているのである。従って、単元の出だしは、「そびえ立つ五重の塔」の小見出しの下、次のように始められている。

 6世紀末ごろ、飛鳥(奈良県)に、今まで見たことのない高層建築があらわれました。高さ30mの木造の五重塔です。本堂の中心には、金をぬった銅製の大仏がすわっています。この寺は飛鳥寺といわれ、大和政権をになう豪族であった蘇我氏が建てたものです。 (38頁)

 飛鳥時代の建築物の中心として飛鳥寺が取り上げられていることが注目される。法隆寺の名前もこの単元に登場するが、あくまで中心は蘇我氏の飛鳥寺なのである。

 もっぱら「厩戸皇子」と呼び、馬子の脇役化する

  次いで、「そびえ立つ五重の塔」に続く小見出しである「厩戸皇子の登場」の下、次のように記している。

 厩戸皇子(のちに聖徳太子とよばれる)も、仏教に強い関心をもっていました。皇子は、四天王寺(大阪府)や法隆寺(奈良県)を建てました。また、皇子は、高句麗から渡来した僧から熱心に仏教を学んで、ブッダの教えを書いた経典を読み解き、人びとにそれを伝えました。

 589年に隋が中国を統一すると、朝鮮の百済・新羅・高句麗は、すぐに隋の皇帝に使者を送りました。蘇我馬子と厩戸皇子は、この動きを見て、600年に隋に使者を送りました(遣隋使)。このとき、隋から政治に対する考えを改めるように助言されました。こののち倭国では、冠位十二階を制定しました。これは、役人の地位の高さを冠の色であらわすものです。607年、小野妹子は高い地位の冠をつけて、遣隋使として派遣されました。また、十七条の憲法によって、政治をおこなう役人の心がまえをしめしました。これらは、蘇我馬子と厩戸皇子が協力して実行しました。(39頁)


 読んでいただいたら分かるように、各種改革の主役は、蘇我馬子であり、十七条憲法さえも馬子の手柄にされている。聖徳太子は、馬子の脇役に追いやられている。そして、脇役に相応しく、小見出しでも本文でも「厩戸皇子」と記され続けている。聖徳太子という呼称は、「厩戸皇子(のちに聖徳太子とよばれる)も」という形で、( )の中でしかも一度登場するだけである。
 
 推古天皇の抹殺

 しかも、推古天皇はこの単元本文に全く登場しない。学び舎とは、反皇室の思想傾向が如実にうかがわれる教科書なのである。

 余りにも侮日的な対外関係の記述

 対内政治史の記述も、十七条憲法さえも馬子の手柄にするなど余りにも反皇室的な学び舎であるが、その対外関係の記述は、怖ろしく、中国崇拝的、侮日的である。学び舎は、遣隋使について、小コラム「遣隋使と中国皇帝は何を語ったか」の中で次のように記している。

 最初の遣隋使は、隋の皇帝から倭国のようすを聞かれ、「倭の王は天を兄とし、日を弟としています。夜が明けないうちに、宮殿で足を組んですわり、政治を行います。日がのぼると、あとは弟に任せます」と答えた。皇帝は、とても理解できないと言い、使者に政治のやり方を改めるようにさとした。

 二度目の遣隋使・小野妹子がもっていった国書には、「日がのぼる国の天子が、日が没する国の天子に書を送ります。ご機嫌いかがですか」とあった。これを見た皇帝は、「蛮夷の書は無礼である。もうとりつぐな」と命じた。これらのことは中国の歴史書『隋書』に書かれている。このころ、中国を中心とする東アジアでは、天子はこの世界に一人しかいないとするのが常識だった。(39頁)


 単元本文、そしてそれ以上に小コラムは、野蛮な「倭国」=日本が、東アジア世界の中心である隋に対して非常識で無礼な外交を行っているというスタンスで書かれている。最後の「このころ、中国を中心とする東アジアでは、天子はこの世界に一人しかいないとするのが常識だった」という記述が注目される。「倭国」は、偉大な隋に対して失礼な外交を行う、礼儀知らずで、ものを知らない非常識な国だったというイメージで、小コラムは書かれているのである。徹底して、当時の日本外交を冷笑するのが学び舎の特徴である。

 聖徳太子から厩戸王へ転換すればどうなるか


  以上から分かるように、聖徳太子から厩戸王へ転換するということは、学び舎のような記述が増加するということである。学び舎的記述が増加するということは、繰り返すが、皇室中心の記述が蘇我氏中心に変えられ、その時代の日本はやはり中国の属国であったという世界観が広がっていくことを意味するのである。

 これは、安全保障上の問題でもある。学び舎の記述からは、日本は中国に従うべきであるというメッセージが強く感じられる。結局、中国による間接侵略に手を貸すことになるのである。「元寇」から「モンゴルの襲来」への転換も同じ意味をもつ。習近平の高笑いが聞えてくるようである安倍政権には、間接侵略を防ぐ、という観点を強く持っていただきたいと思う。

 やはり、聖徳太子の抹殺を許してはならない。3月15日の期限まで、多くの人がパブリツク・コメントに応募され、《聖徳太子から厩戸王へ変えるな》との声を届けられたい。そして、広く《軽率な用語革命を止め、聖徳太子、元寇、鎖国を守れ》という声を届けられたい。
 
 公民的分野に興味のある方は、《家族と地域社会、公共の精神を入れよ》という声も届けられたい。

  転載歓迎

 

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 4
ナイス ナイス ナイス
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
聖徳太子から厩戸王への転換は何をもたらすのか―――対等外交の抹殺 「日本国憲法」、公民教科書、歴史教科書/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる