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zoom RSS 服部剛『感動の日本史』を読んで――日本人の特性を考える

<<   作成日時 : 2016/11/21 12:06   >>

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  前回、服部剛氏の『教室の感動を実況中継! 先生、日本ってすごいね――授業づくりJAPANの気概ある日本人が育つ道徳授業』(高木書房、2015年9月)を紹介した。今回は、同じ服部氏の手になる『感動の日本史 日本が好きになる――気概ある日本人が育つ授業づくりJAPAN』(致知出版、2016年10月)を紹介したい。
 前回と同様、私が全く知らないか余り理解していないエピソードを中心に紹介していくこととする。そして、二つの本を読んで特に近代日本人の特徴について教えられることが多かったので、二冊を通じて知られる日本人の特性について考えていきたい。

 まず、拙ブログの例の通り、『感動の日本史』の目次を掲げることにする。

目次

まえがき
第1話 大伴部博麻 愛国のはじめ
第2話 小笠原諸島を守ったサムライたち
第3話 マリア・ルース号事件――副島種臣の「正義人道の外交」
第4話 日本と台湾の「水の絆」を結んだ鳥居信平
第5話 卵から牛を生んだ聖者・重松@修
第6話 三つの奇跡を起こした将軍・樋口季一郎
第7話 栗林忠道中将と硫黄島の戦い
第8話 阿南惟幾陸軍大臣と終戦の真実
第9話 昭和天皇の御巡幸――戦後の原点、国民との紐帯
第10話 ウズベキスタンと日本人――シルクロードに伝説を刻んだ男たち
第11話 幻の尖閣切手――琉球政府郵政庁職員たちの気概の物語
あとがき



第1話 大伴部博麻 愛国のはじめ
 
  最初に、第1話から紹介しておきたい。私はこの話は多少は知っているが詳しく知らなかったし、一般にそれほど知られていないと思われるので、簡単に紹介しておきたい。本書によれば、大伴部博麻の話は、日本における「愛国」の始めとして位置づけられる。

 大伴部博麻は、7世紀の人である。663年、日本は白村江の戦いで大敗を喫し、多くの兵士が唐の捕虜となった。その一人が、大伴部博麻であった。長安に送られた博麻は、長安に留め置かれた元遣唐使四名と抑留生活を送っていた。ところが、664年の或る日、唐が日本への侵略を企てているという情報を耳に入れる。そこで、博麻からの発案により、博麻を奴隷として売り、それを資金として四人は順次帰国したという。彼らからの報告を受けて、天智天皇は、更に防備を固めた。その効果もあったのであろうが、結局、唐と新羅は日本に侵攻しては来なかった。博麻自身は、唐に捕らえられてから27年後の690年、ようやく日本に帰国した。朝廷も博麻の帰国を歓迎し、持統天皇は、博麻個人に対して勅語を贈った。その勅語には、「朕嘉厥尊朝愛国 売己顕忠」という言葉があった。この「愛国」は、この勅語で日本歴史上初めて使われた言葉だという。

 日本本国に唐からの侵略の危機を伝えるために、自らを奴隷として売ったということは知ってはいたが、改めて読むと、古代の話とはいえ、その国を思う心に圧倒される想いがした。

第2話 小笠原諸島を守ったサムライたち

  本書で紹介された11の話のうち、第2話、第4話、第5話、第10話、第11話の5つの話は、ほとんど知らない話である。その中でも第2話、第10話、第11話の3つの話は、全く知らないものだった。3つの中でも最も考えさせられたというか、その中の登場人物の気概に感心したのは、第2話であった。

 日本は小国だと言われるが、排他的経済水域(EEZ)に注目すると、その面積では世界第6位であり、その海水堆積では世界第4位だという。海水には、金、ウラン、更にリチウムなどのレアアースが大量に含まれており、日本は資源大国になり得る国である。その意味で排他的経済水域は重要なものであるが、その31%は小笠原諸島が保有するものである。

 しかし、小笠原諸島が日本領土として認められたのは、幕末期から明治初期にかけてのことであった。最初に「先占(所有者のない土地を他より先に占有すること)」と認められる行為を行ったのは、幕府に命じられて調査を行った島谷市左衛門であった。島谷は父島に「此島大日本之内也」と記した碑を建てた。1670(寛文10)年のことであるが、その後、幕府は小笠原の開拓を断念する。

 開拓を現実に行い、この地で経済活動を行ったのは、イギリス人と米国人であった。イギリスは、1827年には、小笠原を英国領とする宣言文を刻んだ銅板を父島に掲げた。1830(天保元)年には米英人ら5名とハワイ人20名の開拓団を送り込んだ。そして、1853(嘉永6)年、ペリーが浦賀に入る前に父島に寄港した時には、小笠原の欧米人は50人程に増えていたという。そればかりか、ペリーは、島を調査し、小笠原の領有宣言まで行うのである。

 幕府の気概と国際法の活用

  このままでは、恐らく、小笠原は英国か米国の領土になっていただろう。しかし、軟弱イメージのある幕府であるが、国防の観点から小笠原の領有を目指して、ここで断固として動き始める。その決意を行ったのが、老中安藤信正である。安藤は、「このままでは日本を守ること能わず! 無人島を確保せよ!」ということで、外国奉行・水野忠徳を動かす。水野など約百名は、1861(文久元)年12月、軍艦咸臨丸に乗って、小笠原に向かっていった。小笠原での様子が次のように描かれている。

 二週間後、父島に着いた咸臨丸は七発の号砲を轟かせました。正面に迫る二見港を見つめていた一同は、目をむいて驚きました。なぜなら、号砲に応える形で、海岸に星条旗が掲げられていたからです。上陸した水野は早速、港近くの旭山の頂上に日の丸を掲げさせました。ここが日本の領土であることを示したのです。

 すぐに全島民を集め、話し合いが持たれました。水野は住民代表のセボレーに、百八十六年前に日本が小笠原を発見・調査した事実を説明し、次の三点を提示します。

 「一、小笠原を日本領とする。二、欧米人の生活と財産を保障し、既得権を尊重する。三、今後、日本人移民の開拓に協力せよ

 そして、水野はこう付け加えました。
 
 「もし、日本の統治が不服なら島を退去してもらうことになる。しかし、その場合は補償金として土地と住居を買い上げよう」

 すると、欧米人は「日本の統治を受け入れる」と答えました。どうしてでしょうか。

 実のところ、これまで島民は、海賊や無法な船乗りたちによる盗みや拉致などの犯罪行為に脅かされていたからです。米英政府にとって小笠原はあまりにも遠かったので保護が及ばす、放置してきたのが実情でした。

 これに対して、水野は島民の保護を明確に打ち出しており、しかも交渉の姿勢がフェアだったので、全島民が日本への帰属を歓迎したのです。

 会談の終了後、水野は持参した土産を全島民に贈り、大喜びされました。     (40〜41頁)
 

  水野は4か月も小笠原に滞在し、幕臣の小野友五郎に島々を調査させ、詳細な『小笠原群島図』を完成させた。水野自身も島々を探査し、島々に日本領である由来を示した石碑を建てていった。

 水野は、江戸に戻ると、各国公使に対して、改めて「小笠原の領有」を通告する。欧米諸国は抗議するが、水野は、島谷市左衛門による調査探検の事実、『小笠原群島図』などを示して、日本領土であると主張した。切り札は、小野の作成した地図だったという。他国はまだ小笠原の近代的な実測図を持っていなかったからである。ここに、小笠原に対する日本の主権は確立したのである。

 しかし、生麦事件の後始末がこじれた結果、日本人移民は引き揚げてしまう。明治8(1875)年、明治政府は、小笠原の再回収と開拓を決め、英国公使パークスに通告する。このとき、パークスと外務卿寺島宗則との間で、激しい論争が行われる。結局、最終的には、幕末期における安藤と水野による小笠原開拓の事実が決め手になり、日本の領有を英国は認めざるを得なくなるのである。

 この小笠原領有の話を読むと、幕府の役人たちの気概に驚かされる。また、幕府と維新政府が国際法を武器に堂々と英国等と論争し、小笠原の領有権を確立していった事実に感心せざるを得なかった。国際法を武器として用いようとしない今日の外務省の態度、日本政府の態度と比べたとき、幕府の態度は何と光り輝いて見えることであろうか。

第3話 マリア・ルース号事件――副島種臣の「正義人道の外交」


 幕末維新期の日本人が気概を持ち国際法を武器にしていたことは、マリア・ルース号事件について記した第3話の物語からも見て取れる。

 明治5(1872)年6月、ペルーのマリア・ルース号が、清国人苦力を乗せて、マストを修理するため横浜港に入港した。この船は実質的に奴隷船であったので、日本は清国人を全員下ろして保護し、ルース号船長らを被告にした裁判を行う。マリア・ルース号が英国や米国などの船であれば、「領事裁判権」を英米などに与えているため、日本側が裁判することは不可能であった。これに対して、ペルーは英米などと同じく白人国ではあったが、ペルーとの間では未だ条約を結んでいなかったので、ペルーには「領事裁判権」を与えていなかった。そこで、外務卿であった副島種臣は、日本側が裁判を行えると判断して、政府部内の反対を押し切り、裁判を行ったのである。

 これに対して、ペルー側や各国領事は「有色人種に白人を裁く権利はない」と主張したが、日本側の裁判長は、船長は不法監禁で本来有罪だが情状酌量で無罪とするとし、清国人は全員解放すると判決した。その後、ペルー政府は、日本の措置は国際法に反するとして、日本側に謝罪と賠償を求めてきた。結局、ロシア皇帝アレクサンドル二世による国際仲裁裁で決着させるということになり、アレクサンドル二世は、日本側の措置を支持する判決を下したのである。この第3話では、外務卿副島種臣や、ルース号事件の裁判長を務めた神奈川県令大江卓の行動や考え方に焦点を当てて物語を構成している。

 第2話の安藤信正などは主権を確立し防衛するために気概を示し、国際法の知識を活用しているが、これに対して第3話の副島や大江は、人道を守るために気概を示し、国際法の知識を活用している。いずれにせよ、幕末維新期の日本の政治家には、今の政治家とは異なる気概と国際法に関する知識活用を見て取ることができよう。

第4話 日本と台湾の「水の絆」を結んだ鳥居信平、第5話 卵から牛を生んだ聖者・重松@修 

  第4話が台湾農業の発展に貢献した農業土木技師鳥居信平の物語だとすれば、第5話は、朝鮮半島で近代的農業を指導し根付かせた農業指導者であり、「聖者」とも呼ばれた重松@修の物語である。

 ここでは、第4話、鳥居信平の物語を紹介しておこう。台湾精糖の農業土木技師鳥居信平は、1921年6月から2年ほどかけて、台湾の南部・屛東平原で、地下伏流水を利用した地下ダムを作った。屛東平原では、乾季は全く水が手に入らず、雨季は洪水で農地が水に浸かってしまってどうにもならなかった。ところが、この地下ダムにより、水が安定的に確保されることになった。すると今度は、鳥居は、農家に輪作を教え、サトウキビと共に稲作、サツマイモなどの栽培を教えた。その結果、この地の農業生産力は、サトウキビだけではなく、全般的に飛躍的に増大し、住民の生活も大いに向上することになった。

 鳥居の水利事業の進め方には、大きな特徴がある。彼は、狩猟採集で暮らす原住民の村をすべて丹念に回り、地下ダムの利点を説いて回った。鳥居の行動を、服部氏は次のように描いている。

 日本が統治しているとはいえ、水源は古来現住民たちが守ってきました。したがって、日本人が勝手に開発してはいけないと信平は思っていました。信平は五十人以上の原住民の頭目たちに地下ダム計画とその利点を説いて歩きました。

 しかし、先祖伝来の生活や習慣を守ってきた彼らは簡単に理解を示してはくれません。そこで、信平は彼らと食事や酒宴を共にし、休日には自分の子供たちを連れて村の頭目の家を訪ね、家族ぐるみで親交を深めました。最後は人と人の信頼関係が事を決すると信じたのです。

 そうするうちに信平の方も、原住民の伝統文化の素晴らしさや彼らが日本人以上に義理人情に厚く、勇敢で誇り高い人々であることがわかってきました。いつしか信平は中国語だけではなく、台湾語や原住民の言葉も話せるようになり、頭目の一人とは「義兄弟の契り」を結ぶほどの仲になっていました。信平は原住民たちと対等に付き合い、彼らとの間に揺るぎない信頼関係を築いたのです。

 こうして、ついに信平は工事着工の承諾を得ました。もちろん、原住民の大切な狩り場や漁場に配慮すること、そして自然を壊さずに工事をすることを約束しました。  (77〜78頁)

 
 鳥居が原住民の信頼を得たのには、二つの理由があったように思われる。一つは、鳥居が彼らの中に入っていき、彼らと親交を温めたことである。二つは、地下ダム方式ならば、狩猟の場である山や漁場である清流を汚さずに済むことである。私なりに考えれば、この点を分かってもらったことが、鳥居が原住民から承諾を貰った大きな理由だったように思える。

第10話 ウズベキスタンと日本人――シルクロードに伝説を刻んだ男たち

 第10話は、ウズベキスタンと日本の絆の物語である。

 両国の絆の基になったのが、ソ連に強制連行され強制労働を科された日本人捕虜の行動である。日本人捕虜の一部2万5千人は、ウズベキスタンの13の収容所に送られ、いろいろな建設に駆り出された。日本人捕虜457人からなる「タシケント第四ラーゲリー隊」(隊長は永田行夫陸軍技術大尉)は、ウズベキスタンの首都タシケントの「国立ナヴォイ劇場」を建設したという。この大劇場は、1966年のタシケント大地震でも、タシケント市内の3分の2が崩壊しても、ほぼ無傷だったという。

 そういうことから、ウズベク人は、更地にせよというソ連政府の命令を無視して、日本人墓地を守り続けてきたという。この話を読んで、『先生、日本ってすごいね』に出てくる〈2「やまと心とポーランド魂」恩を忘れない〉と〈3「エルトゥールル号事件」感謝の心〉と通ずるものを感じた。

 第11話 幻の尖閣切手――琉球政府郵政庁職員たちの気概の物語

 第2話とともに全く知らず、且つ最も興味を惹かれたのが、第11話である。

 昭和47年4月14日、沖縄が日本に復帰する5月15日の直前、琉球政府郵政庁は、「海と海鳥と島」と題された記念切手を出した。この切手にはアホウドリが描かれており、尖閣諸島をテーマにした切手だった。この切手を琉球政府郵政庁が出した背景には、職員たちの胸に、尖閣諸島が日本の領土であるということを歴史に刻みたいという想いがあった。

 しかし、外務省は、琉球政府郵政庁が尖閣諸島にある魚釣島の「地図切手」を出そうとした時は、中国や台湾を刺激するという理由から発行禁止を強く主張していた。そこで琉球政府郵政庁は、一見、《尖閣が日本の領土である》というメッセージが込められているとは分からぬようにするために、「海と海鳥と島」と題した切手に切り替えて発行したのである。この琉球政府郵政庁の職員たち(郵券課長浜元暁男など)の物語が第11話である。

 この話を読んで、昔から外務省は気概を持たず碌なことをしないなぁということを改めて感じた。また、外務省の妨害をすり抜けて、《尖閣が日本の領土である》というメッセージを記念切手の中に込めた琉球政府郵政庁職員の気概に嬉しいものを感じた。

 日本人の特性――人の良さ又は利他精神と団結心、職務への責任感 

  以上、2回にわたって、服部氏の2著を紹介してきたが、最後に氏の著書から知られる日本人の特性について考えておきたい。2著を読んで私の中に浮かんだ言葉は、第一に人の良さ又は利他精神、第二に職務に対する責任感、第三に人種平等の精神、第四に集団行動又は団結心、第五に気概、第六に闘う武器としての国際法の活用、というものである。

 第一、第二、第四の三点は、一般的にも日本人の特性として承認されているし、今日の日本人にも当てはまるものである。第三の点も、一応当てはまると言ってもよいのかもしれない。ただし、第五、第六の点は、今日の日本人には基本的に当てはまらないと言えよう。

 服部氏の2著との関連で順に述べるならば、第一点の人の良さ又は利他精神は、前回のブログで紹介した『先生、日本ってすごいね』の〈6「海の武士道〜敵兵を救助せよ」生命の尊重〉の物語だけで十分知ることができる。同書で紹介されている〈16「坂東捕虜収容所 松江豊寿中佐とドイツ人捕虜」寛容の心〉(第一次大戦におけるドイツ人捕虜を寛大に客人として遇した日本軍人の話)などからも知ることができる。

 第二点の職務に対する責任感も、『先生、日本ってすごいね』の〈8「佐久間艇長の遺書」役割と責任〉の物語だけでも十分に知ることができるし、『感動の日本史』で紹介されている〈第10話 ウズベキスタンと日本人――シルクロードに伝説を刻んだ男たち〉からもよく分かる。

 第三点の人種平等の精神も、『先生、日本ってすごいね』の〈11「ユダヤ人を救え 樋口少将と犬塚大佐」差別偏見の克服〉や、『感動の日本史』の〈第3話 マリア・ルース号事件――副島種臣の「正義人道の外交」〉から十分知ることができる。

 第四点の集団行動又は団結心は、何と言っても、『先生、日本ってすごいね』の〈15「日本ミツバチの団結力と日本人の美徳」集団生活の向上〉の物語に現れている。

 気概を持ち国際法を活用する日本人の復活を 

  残る第五の気概、第六の闘う武器としての国際法の活用という点であるが、繰り返すが、今の日本人には、特に政治家には基本的に存在しないものである。ところが、第一点の人の良さ又は利他精神は健在だから、日本人は、他国からは信じられないような自虐史観を抱くようになった。その結果、法の精神が欠如した中韓のような存在に付け入られ続け、領土侵略を許し、又は侵略されそうになっているのである。

 しかし、『感動の日本史』を読むと、第五、第六の特性を持つ、すなわち気概を持って国際法を活用した日本人が居たことがわかる。その例が、第2話の安藤信正や水野忠徳であり、寺島宗則である。第3話の副島種臣や大江卓である。第11話の浜元暁男などの琉球政府郵政庁の職員たちも、単に気概を持っていただけではなく、気概を持って国際法を活用しようとした人たちであると言えよう。中国や台湾との領土論争において、琉球政府郵政庁が発行した記念切手が一つの小さな証拠になると考えたからこそ、彼らは外務省の意向を無視して、《尖閣が日本の領土である》というメッセージを込めた記念切手を発行したからである。

 今後、人の良さ又は利他精神を残しながらも、何としても、第五、第六の点を復活させたいものである。でなければ、恐らく、日本は属国どころか、滅亡の憂き目を見ることになるのではないだろうか。

 副島種臣の言葉を噛みしめよ

  最後に第3話〈マリア・ルース号事件――副島種臣の「正義人道の外交」〉の最後に書かれている副島種臣のエピソードを引用して、今回記事の締めとしたい。

 清国のある要人から「明治維新は目覚ましい大変革であった。あなたはどんな本を読んで指導原理を学んだのか」と尋ねられた副島は笑ってこう答えました。

 「私の外交知識はあなたの国が翻訳した万国公法のおかげです。私たちは、この貧弱な翻訳書の外交知識で列国に侮られることはありませんでした。天下国家のことは士気があるかどうかです。何万冊もの洋書を読破しても、精神が欠けていてはお国の役には立ちません

 その要人は、きまりが悪そうにして帰っていったと言います。  (67頁)


 政府要路の人達、国会議員たち、特に外務省には、この副島の言葉を肝に銘じてほしいと願うのは、私だけではあるまい。

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